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『岡山朝日高等学校生い立ち、戦前篇』 表紙
表紙
『岡山朝日高等学校生い立ち、戦前篇』
<初版2004.11、再版2008.4、第三版2010.3、第四版2013.4>
 創立130周年に際して出版された本校初の沿革史である。本校の創立から昭和28(1953)年に現在の校地に移転するまでの約70年間の歴史が綴られている。執筆者は卒業生であり、本校教諭であった後神俊文氏。約30年に及ぶ資料収集と、『岡山朝日高等学校 教育史資料』や『岡山朝日高等学校 校史資料』において公表されてきた実証的な調査・研究の成果に基づいて執筆されており、将来刊行される校史への橋渡し役を担っている。岡山県における中等教育の歴史を考える上でも極めて重要な書である。A5判、330頁。
 平成20年3月に再版が、平成22年3月に第三版が、平成25年4月に第四版が発行された。

『岡山朝日高等学校生い立ち、戦前篇』 カバー(開いた状態)
カバー(開いた状態)
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 カバーには校訓のカードと、当時の校門と校舎の姿がわかる絵はがきがあしらわれている。
 校訓は明治42(1909)年11月21日に校旗とともに制定された。光岡金雄校長が校訓を定める理由を述べた後、生徒代表仁科芳雄氏(著名な原子物理学者)が「謹んでこれを服膺すべき旨の誓辞」を述べ、次に野崎又太郎教頭の訓辞があって、校旗(校長が個人として寄附)が披露された。
 また、はがきは本校関係戦死者画像の除幕式を記念するものである。除幕式は明治40(1907)年11月21日に行われ、戦死者の絵の制作には本校出身の画家である中川竪一、満谷国四郎、大森柳江、松原三五郎らの諸氏があたっている。

『岡山朝日高等学校生い立ち、戦前篇』 「第二 明治二〇年代の章」から 『岡山朝日高等学校生い立ち、戦前篇』 「第七 第二岡山高等女学校の章」から
「第二 明治二〇年代の章」から 「第七 第二岡山高等女学校の章」から

第四版の目次
★< >内の数字は頁数
 <校長 杉本尚平>
凡例
はしがき−再版にあたって<1>
第一 黎明期の岡山中学の章
  一、岡山県の中等教育事始め
岡山中学の濫觴 <8> / 普通学校の成立<10> / 「学制」発布と普通学校の行方<13>
遺芳館の関係者のみた普通学校<15> / 迷走する普通学校<16> / 温知学校の開設<18>
岡山中学の前身としての温知学校予科<19> / 温知学校から岡山県師範学校へ<21>
  二、師範学校から独立と再合併
変則中学校としての出発<27> / 明治一二年の岡山中学<28>
中学校についての岡山県の方針<30> / 文部省による中学校の淘汰<32>
岡山中学の財政的危機<33> / 明治一七年の「岡山県岡山中学校規則」<36>
岡山学校の成立<38> / 岡山中学と師範学校の間柄<40>
中学生の中途退学の論理<42> / 岡山中学と自由民権論<45>
第二 明治二〇年代の章
  一、岡山県尋常中学校の成立
一県一校時代の岡山県尋常中学校<48> / 規則からみた岡山県尋常中学校<50>
生徒と教師に恵まれた学校<47> / 高等中学校との〈連絡〉− 自分で道を開く<55>
西日本で最も著名な中学校へ − 第三高等中学校から得た特待<58>
  二、課外活動と学校行事
尚志会結成への動き − 新しい時代の到来<62>
制服・制帽の制定と尚志会 −「日本では二番目」の角帽<64>
尚志会の役員、委員の役割<66> / 「長途行軍」− 修学旅行の濫觴<68>
本来の〈修学旅行〉− 博物研究のための旅行<70>
行軍で深まる教師と生徒の亀裂<71>   運動会|〈作り物〉と〈通り物〉がまかり通る<75>
第三 明治三、四〇年代の岡山中学の章
  一、明治三〇年前後の岡山中学
英語のぬけた入学試験 − 県立尋常中学三校時代<78>
「部」が登場した尚志会 − ただし、部員は不在<79> /烏城城郭内への校舎移転<83>
補習科の設置 − 徴兵猶予のために<85> / 須崎芳三郎校長から服部綾雄校長へ<88>
  二、〃名校長〃の就任
服部校長の改革策<91> / 最盛期の修学旅行 − ひたすら歩く<93>
服部校長の生徒指導 − 尚志会規則の改正<95> / 服部校長の退任<97>
  三、日露戦争前後の岡山中学
高等学校の総合共通選抜制度と岡山県の共同選抜試験<99>
明治三〇年代の尚志会 − 言論活動から運動へ<101>
明治三〇年代の運動会 − 競技よりアトラクション<103> / 尚志会による選手の任命<105>
もつれた尚志会規則の改正 − 日露開戦が追い風<106>
明治三〇年代半ばの岡山中学 − 学則と生徒<108> / 日露戦争と岡山中学<110>
尚志会の事情 −『烏城』がいびられる<112>
明治四〇年頃の岡山中学 − 「日誌」に書かれた学校行事<113>
校旗・校訓の制定 − シンボルとしての三足烏<116>
第四 大正時代の岡山中学の章
  一、大正時代の教師と生徒
諒闇と岡山中学の生徒<120> / 改元と岡山中学 − 音楽教師の犯罪<122>
黒住テーロ事件と「自彊会」<123> /光岡校長の退任と野村校長の一年半<125>
大正中期の生徒数と入学試験<129> /大正七年の学校制度の改革 − 四修制の開始<130>
修学旅行の定式化 − 「忠君愛国」の教材として<133>
  二、大正期の課外活動
大正期の尚志会の進化<137> / 運動選手と一般生徒<140> / 部の活動費<141>
  三、大正期後半の変革
二中の誕生に伴う校名の改称と入試方法の模索<143> / 創立五〇周年の記念事業<145>
五〇周年頃の岡山一中<147> / 配属将校の制度<149>
第五 昭和前期の岡山一中の章
  一、不景気の時代の岡山一中
入試方法の改革<156> / 教室・勉強・教師<158> / 学校生活に侵入する軍事教育<161>
雑誌『烏城』の動向<165>
  二、準戦時体制から戦時体制へ
創立六〇周年の昭和九年<166> / 賀陽宮の奉迎と一中生の清掃<168>
国体明徴運動と中等教育<170> / 「軍国主義化反対」の集会<173>
戦争と国民精神総動員運動<174> / 集団勤労作業の開始<176>
「御親閲」と「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」<178>
  三、強化された戦時色
勤労奉仕と興亜奉公日<180> / 紀元二千六百年の学校行事<183>
第六 大戦下の岡山一中の章
  一、開戦と学校の変化
国防色の制服と尚志報国団<188> / 時局と学校<192>
「大東亜戦争」と岡山一中 − 昭和一七年<193> / 裏川校長から高畑校長へ<196>
高畑校長の最初の年 − 昭和一八年<197> / 昭和一八年の査閲<200>
  二、「勤労即教育」の時代
昭和一九年の岡山一中・二中の総合考査<203> / 学徒勤労動員の準備<205>
品川白煉瓦への出動<206> / 倉敷工業の出動<208>
昭和一九年度二学期、倉敷工業にて<204> / 決戦最後の年に向けて<212>
動員生徒の三学期<214>
  三、敗戦の年に
卒業しても動員は継続された<216> / 御真影は無事、武器は焼けたが<219>
それから敗戦まで<224> / あらたに三年生を動員<225> / 岡山一中の終戦<227>
学徒動員の始末<229>
  四、岡山一中の戦後
三つの教場での授業再開<233> / 公会堂と伊島国民学校にて<236>
戦中教育の否定<239>
第七 第二岡山高等女学校の章
  一、第二岡山高女の誕生
〃県立高女をもう一校〃という願い<244> / 県立二女の開校<247>
女子師範に抱かれた二女<250> / 開校当時の二女〃岡山の学習院〃という姿勢<252>
菅原校長の方針と二女教育の特色<256>
女子師範の日程に組み込まれた二女の学校行事<263> / 作業と労働奉仕<264>
歩く学校行事と泳ぐ学校行事<266> / 「紀元は二千六百年」の学校行事<267>
「うれし筑紫へ初夏の旅」<269> 一期生は卒業を控えて<271> / 研究科の設置<273>
  二、戦争と二女 −「あゐさくら」の青春
校友会の改組<274> / 生徒を縛る方策<276>
二女の四季 − 昭和一六年の学校行事の概要<277>
変わらない二女、変わらねばならない二女 − 資料皆無の時代の始まり<281>
「教練」や「修練」のはびこる学校 − 昭和一八年一学期<283>
夏休みではなく夏季の錬成<285> / 昭和一八年度後半の秋から冬へ<286>
綜合考査から新年度へ − 昭和一九年という年<289> / 中国航機への出動<290>
住友通信株式会社岡山製造所への出動<293> / 下級生の学校生活<294>
倉敷航空化工への三年生の出動<296>
  三、昭和二〇・敗戦の年
昭和二〇年度のはじまり<299> / 新三年生の出動<300> / 校舎焼尽から敗戦へ<303>
焼跡にて<304> / 授業の再開<306>
第八 おわりの章<311>
あとがき<323>
参考文献、その他<328>
「岡山朝日高等学校の生い立ち」に関する年譜<331>
『尚志会雑誌』『烏城』発行日一覧<336>

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