私には、夏になると必ず思い出す人物がいる。彼女の名は「マッハナーズ」、アフガニスタン出身の少女だ。彼女と私がルームメイトとしてひと夏をともに過ごしたのは、1982年、アメリカのニューヨーク州、ナイアガラフォールズにほど近いニューヨーク州立大学バッファロー校でのことであった。その年、日本の大学を卒業した私は、ロータリー財団の奨学生としてアメリカの大学院に入学するための準備に、3ヶ月の語学研修を当大学で受けていたのである。
栗色の巻き毛に、透き通るような肌、北欧出身かと見間違う彼女は、みんなの人気者であった。「(はっきりと)アフガニスタン一の富豪の娘」を自称する彼女の故国での生活は確かに豊かだったようだ。運転免許を取り立てだというのに、既に「自分専用」の自動車を4台も買ってもらっており、そのうち2台はベンツだそうだ。17歳の誕生日に父親から贈られた物らしい。「一体『家族』は何台の車を持っているのか」という質問には、しばらく数えていたようであるが、結局は“countless”(「数え切れない」)の返事が返ってきた。14歳の誕生日には、彼女へのプレゼントとして、父親が、「アフガニスタンで(今度は)1、2を争う」人気歌手を家に呼び、彼女のために特別のバースデーコンサートを開かせたそうである。その家というのも、4階建てでダンスホールらしきものまである、立派な洋館であった。「何不自由なく育った少女」というのが私の彼女への印象であった。
くるくると動き回り、よく笑い、常に男子学生に囲まれ、週末にはディスコで踊りを楽しむ彼女からは故郷を離れた寂しさは微塵も感じられなかった。いや私が気がつかなかったと言うべきかもしれない。そうあの日までは……。
熱があるから授業を休むという彼女を部屋に残し、私は一人で講義に参加した。ユニークな教授と、各国から集まった活気に満ちた学生、少人数で行う充実した授業。光溢れるカフェテリアでのたわいのないおしゃべり。緑のキャンパスを渡る風は夏のかおりを運んでいた。満ち足りた気持ちで部屋に帰った私を待っていたのは、同胞のアフガニスタン人の友達に囲まれて泣いているマッハナーズの姿であった。「マッハナーズはホームシックなのよ。母親に会いたいのよ。」彼女の従姉のリタが説明してくれた。「夏の研修が終われば一度アフガニスタンに帰ればいいじゃないの。そうすればお母さんに会えるよ」と励ますつもりで発した私の何気ない言葉は、その場の雰囲気を一気に変えてしまった。激しく泣き出すマッハナーズ、それを慰めるリタ。自分の言葉が引き起こした反応の大きさに戸惑う私がいた。しばらくしてやっと、彼女たちはぽつりぽつり説明してくれた。自分たちの渡米は「亡命」であったこと。二度とアフガニスタンの地へは帰れないことを覚悟して、国を出たこと。故国アフガニスタンでの激動の日々……。
1979年12月24日、年明けをあと数日に控えた厳寒のこの日、ソ連軍が国境を越えアフガニスタンの地に「侵攻」した。西側のメディアはデタント(「東西緊張緩和・雪解け」)の終わりを告げるこの事件を大きく報道した。(最もこの行動はソ連筋によると、「ソ連アフガン二国友好協定」に基づくアフガニスタン政府の「要請」に応じたためだということになっている。)首都カブールは完全にソ連軍の勢力下に入り、巻き返しをはかるムジャヒディーン(「自由の戦士たち」)との間に激しい内戦が勃発した。日々激化する戦闘。学校でもいつ爆発が起こるか分からない状態となった。戦火を逃れようと、隣国パキスタンに向かうため、難所のカイバー峠を越えようとする難民たち。ただマッハナーズの安全を脅かしたのは内戦による戦闘だけではなかった。「アフガニスタン一富豪」とされる彼女の父の資金を狙う各派からの誘拐工作も彼女をアメリカへと向かわせた大きな理由であったらしい。マッハナーズのアメリカへの道のりは簡単ではなかった。当時「非同盟諸国の盟主」と謳われながらも実際は親ソ路線を取るインドへ出国し、数カ国を経由してやっとアメリカへ着いた時には故国を離れてから二ヶ月が経っていたという。パスポートを発行してもらえたのは、ひとえに彼女の父の力によるところが大きかったのであろうが、同時に、そのような財界の要人が一家総出で亡命することを認めるほど政府も寛容ではなかったらしい。3歳の弟のパスポートは発行されず、当然母親は国を離れることはできなかった。アフガニスタンを発つときに母親と二度と会えないかもしれないことは「覚悟していた」と語ってくれた。
そんなマッハナーズの夢は、平和が戻ったアフガニスタンに、小児科医として帰ることであった。アフガニスタンでは乳児死亡率が高く5歳の誕生日を迎えられない子どもを「あちらこちらで知っている」らしい。(ちなみにユニセフの調査によると、1993年のアフガニスタンの乳児死亡率は1000人あたり165人である。)そんな子どもたちを救うことがマッハナーズの望みであった。
ひと夏の楽しい日々はあっという間に過ぎ去り、朝夕の空気がひんやりとし始めた9月、研修生たちは全米の大学に散らばっていった。私はユタ州に、マッハナーズはニューヨーク市に。頻繁に続いていた手紙のやりとりも、時の流れとともにいつの間にか途絶えてしまった。ちょうど、ソ連の侵攻を大きく伝えていたマスコミも、段々とその事件を扱うことが少なくなり、1989年2月「ジュネーブ合意」によりソ連が撤退したあとは、アフガニスタンのことはほとんど国際社会の意識から消えかかったように。
彼女のアフガニスタンに平和が戻る兆しはあまりない。ソ連の撤退後も、共産政権と反政府軍であるムジャヒディーンとの争いは続き、政権崩壊後は、今度はムジャヒディーン各派による勢力争いが激化した。それでもヨーロッパの民族闘争の陰に隠れ、国際社会から援助も注目も十分受けられず「国際社会の孤児」とまでいわれた1990年代のアフガニスタン。イスラム原理主義を掲げるタリバン政権が圧政を敷いた1990年代後半。アフガニスタンが再び国際社会の注目を浴びたのは皮肉にも2001年9月11日の「同時多発テロ」がきっかけであった。その後の国際社会の援助にもかかわらず、アフガニスタンにマッハナーズの望んだような平和が戻ったとは言い難い。
マッハナーズはどうしているのだろうか。今もアメリカの空のもと元気に暮らしているのだろうか。それとも、ひょっとしたら危険を覚悟でアフガニスタン再生に向けて故国に戻ったのであろうか。今となってはそれを確かめるすべもない。
あの夏の日々から既に20余年の歳月が流れ、楽しかった日々は、もう2度と戻ってはこない。マッハナーズとは二度と会うことはないかもしれない。ただ、それでも私の心から、あの輝く夏の日の思い出が消えることはないし、マッハナーズを忘れることも永遠にない。ひょっとしたら人間はそのような「輝ける日々」があるからこそ生きていけるのかもしれないし、そういう瞬間を求めて生きているのかもしれない。 |
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