みなさんは、『世界がもし100人の村だったら』という本を読んだことがありますか? 薄い、絵本の形式をとっているこの本は、次のようにはじまります。「今朝、目が覚めたとき あなたは今日という日にわくわくしましたか? 今夜、眠るとき あなたは今日という日にとっくりと 満足できそうですか? (中略) すぐに『はい、もちろん』といえなかったあなたにこのメールを贈ります。これを読んだらまわりが少し違って見えるかもしれません。」
話題になった本なので、読んだことがある人も多いでしょう。世界の63億人を100人の村に縮めて考えるという方法で、さまざまな統計値をわかりやすく示しています。もし、まだ読んだことがない人がいたら、そうですね、15分で読めるでしょうから一度手に取ってみてください。
さて、 この本の中には人口や言語・宗教のほかいろいろな統計の数値が示されています。「20人は栄養がじゅうぶんではなく 1人は死にそうなほどです
でも15人は太り過ぎです」と
か 「すべてのエネルギーのうち20人が80%を使い 80人が20%を分け合っています」といったように。 私は社会の教師の端くれですからこれらの数値は私にとってはそう驚くような
ことではなく、「まあそんなもんだろうな」 と思いながら読みました。しかしその中に「えっ!そうなの?」と思う指標が一つありました。それは 「90人が異性愛者で10人が同性愛者です」
というくだりでした (英語の原文では11人になっています)。
私の正直な感想は、「そんなに多いの?」というものでした。みなさんはどう思われますか? これは10人に1人ということであり、40人の教室なら4人、職員室の先生方が60人なら6人同性愛者がいてもおかしくないということです。当時の私は、同性愛者の話題は映画やテレビで見聞きすることはあってもそれは自分に関係ない遠い世界のことのように“なんとなく”思っていました。それが、10人に1人とは!と非常に驚いたことを今でも思い出します。
ただそのときは驚きをもってその数値を眺めただけでした。同性愛者の知り合いがいるわけでなし、やはり私にとっては距離感がある問題でした。そんなある日、たまたま以前の職場の仕事の関係で東京である人権講演会を聴く機会があったのです。講師は性同一性障害の当事者で、世田谷区議の上川あやさんです。
彼女は男性の身体をもちながら、女性としての心の性との違和感に長い間苦しんだこと、女性として生きていくことを決意するとともに、性同一性障害を公表した上で世田谷区議会選挙に立候補して当選したこと、弱者や少数者の声を政治に届ける活動を信念を持って実践していることなどを、力を込めて話されました。
性同一性障害のことは話には聞いていたし、岡山大学で性別適合手術をおこなっていることも知ってはいましたが、当事者の方とお会いするのははじめてでした。手を伸ばせば届くほど近くで当事者の方のお話を聞き、彼らが自分の努力ではどうにもならないことでどれほど苦しい日常を強いられてきているか、また厳しい差別や偏見の目にさらされてきたかを私はようやく現実の問題として少し理解できるようになりました。また、その時うかがったお話で、同性愛者と性同一性障害はまったく違うものであって同様に考えてはいけないことを知り、性的少数者の青年期における自殺率の高さについてのお話(アメリカの統計による)は、高校に職を持つものとして見過ごせない話だと思いました。
同性愛を公表してテレビなどで活躍している人も最近では増えてきているように思います。が、どちらかというと笑いの種にされるような役割であって、まだまだ彼らに対する偏見や誤解は多いようです。しかし、ようやく日本でも毎年年末に行われる人権週間の強調事項で「性的指向を理由とする差別をなくそう」「性同一性障害を理由とする差別をなくそう」と取り上げられるようになりました。
彼らに対する差別や偏見の根底には、人間に「自分と違うものを排除する」気持ちが働くからであろうと思われます。こういう意識は同性愛者や性同一性障害の人々に対してだけでなく、例えば肌の色の違い、民族の違い、言葉の違いなどでも現れます。宗教の違いによる激しい対立が、現在の世界を揺るがす大問題となっていることはみなさんもご存じの通りです。強い仲間意識は居心地の良さとある種の特権意識を生み出しますが、それは仲間でないものを排除したり攻撃したりする強い力にもなる諸刃の剣なのです。
では、私たちの周りにはそんなことはないでしょうか? 高校生は何かとグループになることが好きですよね。部活の仲間、クラスの仲間、同じ中学の出身者……気の合う仲間のグループは楽しいものです。けれど、ほんのちょっとした違いを理由に、だれかを仲間はずれにしたり、毛嫌いしたりしていないでしょうか?
以前、別の講演会で辛淑玉さんの話を聞いたとき、彼女はこんなことを言っていました。「これからは、『みんな仲良く』ではなく『イヤなやつともやっていく』だ」と。違う肌の色、違う民族、違う言葉、違う宗教、違う性的指向、違う考え方、違う学年、違うクラス、違う部活、違う中学etc…。どの人とも心から仲良く、すべてをわかりあい、みんなと仲間になることは難しいのかもしれません。しかし、葛藤をともないながらも、自分と違う人たちを嫌悪したり排除することなく、ともに生きていくことは可能ではないでしょうか。
『世界がもし100人の村だったら』ではこのように書かれています。「いろいろな人がいるこの村では あなたとは違う人を理解すること 相手をあるがままに受け入れること そしてなにより そういうことを知ることがとても大切です」と。これは自然にできることではなく、「努力」を必要とすることです。身近なことから世界規模のことまで、私たち一人ひとりの「努力」で人と人とのあり様は変わってくるのかもしれません。 |
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