“Never give up”
「あきらめるな」という言葉は、これまで何度となく先生から言われ、自らも言い聞かせてきた言葉ではないでしょうか。私も言った記憶があります。教師にとっては、条件反射というか、ほとんど職業病のように使う台詞です。
本来「あきらめる」という言葉は、「明らかに見る」(ものごとを正しく認識する)という意ですが、人はそう簡単にものごとを明らかに見ることはできません。人には煩悩つまり執着心があるからです。「明らかに見る」ことができるように、古来人々はさまざまな行を行ってきましたが、成功しえたかどうかは定かでありません。自らに執着することなくものごとを明らかに見ることを仏教では「悟り」といい、明らかに見ることのできた人を「目覚めたるもの=仏陀」とよんだのです。
したがって、「あきらめるな」という言葉は、「正しくものを見るな」「自己に執着し、煩悩のままに生きよ」と言っているようなものです。もっとも、「あきらめよ」といわれても、人はなかなかあきらめられるものではありません。
長い間日本人は、執着心を我執として否定的にとらえ、これをどうやって削ぎ落とすかということに腐心してきました。無我とか無私の精神とかが説かれてきたのはそのためです。しかし近代になると、執着心を新しい力を生み出すものとして、むしろ肯定的にとらえるようになりました。
権利や個人主義など、欧米社会の価値を普遍的価値として積極的に取り入れる際、それらの価値の源にあるものとして、「個への執着」を感じ取っていたのではないかと思います。実際、人間は個に執着することによって、多くのことを実現してきました。人間のさまざまな欲求は権利として確立され、さまざまな欲望も市場経済と消費社会のなかで商品という形をとって充足されてきました。
現在、個人の尊厳という価値の大切さを疑うものはいないでしょうが、これを私の尊厳と考え、自己を絶対視する人が増えてきているように思います。若者は陶酔したように「オンリーワン、世界にひとつだけの花」だとか歌うようになり、かつては「自分以外、皆師」と思っているものも多かったが、最近では「自分以外、皆バカ」だと思っている若者も現れているようです。自己を中心にして世界は動くと、本気で考えている人もいるのではないでしょうか。天動説の復活というべきでしょうか。自己本位や自己愛は肥大化すればグロテスクであり、かえってそれが悩みや苦しみの源泉になることもあるでしょう。
ともかくも、社会や人間の心理の表層において、個人主義はすっかり定着したように見えます。しかし、深層においては必ずしもそう言い切れません。日本人には長く、執着心を我執として否定的にとらえ、「個」よりも「場」を重視する心性を持ち、「自ら」を「みずから」ではなく「おのずから」と読んできた伝統があるからです。身にまとう着物は変わっても、中身はほとんど変わっていないように、現象的にはどんどん変わっていきながら、人間の行動様式や心性は、案外変わらないのかもしれません。
それにしても、変化の読めない、生きづらい時代になってきました。人間関係のさまざまな齟齬やトラブル、不登校やひきこもり、不安や神経症などの背景には、変わりゆくものと変わらないもの、新旧の価値や文化の相違とその読み違えがあるのではないかと、私は思っています。
先日、『未完の夢 無言館展 −戦没画学生が遺した愛と絵−』という展覧会に出かけてきました。突然これまでの生活を断念させられ、生死をゆだねる戦場に出てゆかねばならなくなった画学生が最後に描き遺した絵は、すべて具象画でした。妻や母あるいは身近な人たちを描いたものと、身のまわりの草花や自分の部屋から見える家並みや里山などふるさとの自然を描いたものに尽きていました。すべてを諦めなければならなくなって、なお諦めきれないものが何であるか、よくわかりました。人が最後まで執着するもの、つまり最も大切に考えるものが何であるか、よくわかりました。
そのことさえ押さえておけば、「あきらめる」ことができなくても、人が生きることは難しいことではないように思われます。道を踏み外すこともないでしょう。 |
|