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『相談課便り』第10号(表面)
『相談課便り』第10号
 終業式が終わりました。1学期を楽しく終えた人、なんとか頑張れた人、少々つらかった人、様々だと思いますが、夏休みは健康管理ばかりでなく、心のケアも大切です。心をたっぷり休養させたり、栄養を与えたりするには、やはり自分の心に対する応援メッセージを読むことが一番でしょう。今回の相談課便りでは4人の先生方のメッセージを載せています。特別企画として、ゲスト執筆者をお願いしています。どの先生かわかりますか? それぞれの先生方のみなさんを思う気持ちが伝わればうれしいですね。
関係性の回復 一色節二
批判的に考えるということ 永田宏子
隣人Fのこと 宮本竜彦
時間をかければ… 柴田みさえ
<平成19年7月発行>
 <表面>
『相談課便り』第10号(裏面)
 <裏面>

 
 関係性の回復  一色節二
 日本の社会を考える時、気になる2つの数字があります。自殺者と幼児虐待の数です。
 日本では1998年以来、毎年3万人を超える人間が自殺をしています。毎日100人近い人々が自ら命を絶っていることになります。驚くべき数です。中高年が多いが、若者にも拡がっているといいます。どのような人間関係のなかで自殺にいたったのか、暗澹たる気持ちになります。引き止めるべき人間関係をもち得なかったことは、不幸というしかありません。
 「人間」という文字は、中国では本来人間(ジンカン)つまり社会を意味していましたが、日本ではいつのまにか人間(にんげん)つまり人そのものを表すようになりました。日本では、人の間すなわち人間関係を離れては、人は人たり得ないと考えられていたからでしょうか。日本は関係性を極めて重視する社会であり、人生の豊かさとは畢竟すれば関係性の豊かさに尽きると考える日本人は多いのではないかと思います。
 最近、精神を病む人が増加していると聞きますが、それは関係性そのものを病んでいるのではないでしょうか。
 増加の一途をたどっていた幼児虐待件数が、昨年度3万7千件に達したといいます。これは児童相談所が相談を受けた件数であり、実態はその数倍を超えているのではないかと思います。最も無力で他者に依存しなければ生きていけない時に、親からその存在を無視あるいは否定されるような体験をすることがどれほど大きな影響をあたえるかは、はかり知れないと思います。人間関係のなかではじめて人が人たり得るのならば、人が人を大切にするのは自分が他者から大切にされる体験を経なければなりません。人を愛し信頼するためには、人から愛し信頼されなければなりません。
 日本社会は将来、強烈なしっぺ返しをうけると思います。もう現に、うけはじめているというべきかもしれません。
 現在日本の社会では、自立とともに自由ななかでの競争と自己責任が、声高に求められています。勿論、自立を求めて努力し自己責任を果たそうと努めることは、大切で必要なことです。しかし、そもそも人間は自立して生きられるものなのでしょうか。本来、人間は自然や社会や他者に依存しなければ生きられない存在です。これはちょっと考えれば、自明のことです。人間が生きるということは、依存するということとほとんど同義のことと思われます。人間の自立とは、依存を前提にしてはじめて言いうることではないでしょうか。この事実を無視しようとするのは、人間の傲慢でなければ無知というべきではないかと思います。自立を求める前に、その前提としての依存すべき基盤がどんどん人間の手で崩されていっていることこそ、深刻な問題というべきでしょう。
 現在必要なことは、人間が自然や社会や他者に依存しなければ生きられない存在であることを再確認し、それらとの失われつつある関係を再構築することではないかと思っています。

 
 批判的に考えるということ  永田宏子
 みなさんは、「ハンセン病」という言葉を聞いたことがありますよね。1996年に「らい予防法」が廃止になって以来、学校教育や社会教育での啓発運動がすすみ、長年にわたって人々の間に植え付けられてきたハンセン病への偏見を払拭する取り組みがなされてきました。多くのみなさんは小・中学校で(高校でも)何らかの形で勉強したと思います。中には、長島愛生園や邑久光明園を訪問したことのある人もいるのではないでしょうか。
 以前勤務していた学校で、長島在住の元患者の方に講演をしていただいたことがありました。幼いころから受け続けた差別や屈辱の人生を涙ながらに語られ、しかし自分の人生を取り戻すべく仲間と立ち上がり、法律の廃止を勝ち取ったときすでに70歳を超えていたというお話に、生徒共々聞き入ったものです。
 翌日、たまたま体調不良で欠席して講演を聴けなかった生徒に「残念じゃったなあ。本当にいいお話だったんよ」と声をかけたところ、彼はこう言いました。「ハンセン病のことなら知っとるよ。鼻が溶けたり、指がなくなったりするんじゃろう。あれ、ウツルから危ないんよなあ?」彼は16歳。一体、どこでだれからこのような誤った知識を聞いたり教えられたりしたのでしょう?
 差別観や偏見がなぜ生まれるのか、要因を一つに絞ることはできませんが、「正しいことを知らない」「不確かなことを確かめもせずに信じる」ことから生まれる偏見の恐ろしさを垣間見た気がしました。彼が「彼の知る真実」を友達や自分の子どもに伝えていったら……。
 ハンセン病に限らず、私たちの周りにこのようなことはないでしょうか?自分の思いこみで物事を決めつけていたり、人の言う不確かなことを鵜呑みにしたり。「私はそんなことない」と断言できますか?でも、楽して儲かる話などないとわかっているのに、何と多くの人がマルチ商法や詐欺に引っかかってしまうことでしょう。これは、私たちにはだれでもそういう側面があることを示しています。
 物事や情報を批判的に分析する力(Critical thinking)は、生きていく上でとても大切です。正しい知識を身に付けるとともに、知識や情報を客観的に分析して理解しようという姿勢は、私たちが愚かしい過ちに陥ることを防いでくれることでしょう。言うは易く行うは難しですが、少しそんなことを考えながら、友達の言葉やTVの報道、そして授業に耳を傾けてみませんか?

 
 隣人Fのこと  宮本竜彦
 大学生のころ学校の近くに下宿していた。日当たりの悪い1階に三部屋あり、私と友人二人が住んでいたが、そのうちの一人はアラビア半島を自転車で横断するという野望を持った男で、もう一人は高校の時からの同級生、理想家肌の堅物Fだった。
 Fは障害児教育を専攻していた。自主ゼミやら養護学校の生徒との交流会などに出かけていっては、その日の感想を熱っぽく語ってくれた。『「障害のある人が求めているのは、同情ではなく共に生きることだ」と言われたが、おまえどう思うか?』などと問われ、困惑した覚えがある。その当時は彼の問題意識にはまったくついていけなかった。ある時、女の子がFの部屋でしくしく泣いているので、Fでも女を泣かすのか、と驚いたりうらやましがったりしていると、他の男に振られた恨みをFにぶちまけているところで、Fはそれを辛抱強く聞いてやっているのだった。
 この友人にはいろんな影響を受けた、と今になって思う。なぜか大学時代、ロシアのチェーホフという作家の作品を結構たくさん読んだような気がするが、それはFが「寝る前にチェーホフの短編を一つ読む」ことを日課にするほどその作家に惚れ込んでいたからだ。なんと私も貧乏学生の分際で、チェーホフ全集を買った。いまも本棚に「飾ってある」。
 Fがなぜそんなにチェーホフに惚れ込んでいたのか。チェーホフの作品には、雄々しく社会の矛盾とたたかったり、理想に燃えて日々の生活を改善したり、目前の困難を強い意志で次々にクリアーしたりする人はあまり出てこない。むしろ、今の自分に飽きたらず生活に満足していないくせに現実の前に無力で、その自分の無為のために苦しんでいる人物が多い。「なんてかわりばえのしない人生なんだ!」と嘆くくせに、その数年後も数十年後も相変わらずかわりばえのしない人生を送っている男などよく出てくる。
 Fは精一杯毎日を過ごしているように見えた。勉強する、集まりに出る、人と会う。「こうしなくては」といったん思い決めたらやり通そうとするところが自分に荒行を課す行者のようだった。ニンジンが体によいと聞くと、毎日一本生(なま)のニンジンをかじっていた(これは真似しなかった)。文系のくせにセンケイ数学とかいう訳のわからない勉強もして数学の教員免許も取った(これは真似できなかった)。私なんかに比べると、素晴らしく有意義な日々を送っていた。しかし、彼にとっては、それでもまったく不十分で何もできていない、と思えたのかもしれない。そういえば、「ああ、こんな風にできたらなあ」とか、「まだまだやね」とよく口にした。彼は自分の至らなさを執拗に追求するタイプだったのだろう。チェーホフは、ダメな男や女がさらけだす醜態や滑稽さをさりげなく、しかしリアルに描き出す。Fはチェーホフを自分に対する厳しい内省の導入材に使っていたのかもしれない。チェーホフをもって自らを打つ!
 最近もう一度読んでみたら、チェーホフは案外元気が出る作家だ。やっぱりハッピーエンドでは終わらない。問題にぶつかって解決できないままに終わる。そんなに人生アマクナイ。でも、終わりが再出発になっている。「どうしたら?どうしたら?」と頭を抱えたままだけど、主人公には苦しみの果ての回心がある。「終わりまではまだまだ遠く、最も入り組んだむずかしいところは今ようやく始まったばかり」とはっきりわかっているのだ(『犬を連れた奥さん』のラスト)。静かに希望が語られる。この希望の語られ方は、「より良い未来が手に入る当てはないと覚悟せよ。同じ苦しみを繰り返すかもしれないが、『これが人生か。さればもう一度!』と何度でも受け入れよ」といったニーチェに近いような。
 Fは卒業後どうなったか。チェーホフを読んでそうなったのかどうか知らないが、少年司法の専門家として大活躍している。しかし、一時期マラソンに凝り、フルマラソンを走るところまでいったという。やっぱり修行はしているらしい。

 
 時間をかければ…  柴田みさえ
 子供にとって、携帯電話はもう当たり前になってきているのかもしれない。中学生になった私の娘もご多分に漏れず携帯電話が欲しいようだが、毎日の学校生活で疑問に思うことの多い私としては、携帯を持たす気になれない。娘は友達に「柴ちゃん、いつになったら携帯買ってもらえるかな?」などと笑われるようだが、そんなことに親として負けてはいられない。しかし、子供同士の連絡方法はやはりメールのようで、娘は時々私の携帯を使っている。この間も遊ぶ約束をメールでしていた。
 自分が子供の頃は学校で約束をして帰るか、友達の家にまで行って声をかけるかだったと思う。電話などもあまり使わなかった。誰が電話に出てくるかどきどきするし、即座に遊べないなんて断られるとショックも大きい。ぼちぼち歩いて行きながら、ピンポンを押そうか、裏の勝手口から声をかけようか、いなかったらどうしようか、厳しいおじいちゃんが出てきたらどうしよう、などとさまざまなパターンを考えていた。娘は違う。どうしようかななどと言いながら、メールですぐ解決なのだ。
 羨ましいような、味気ないようなそんな気がしていたのだが、そのときのメールのやりとりは10分そこそこで3〜4回ほどだったと思う。あまりにも頻繁にメールが来るので、娘に聞いたところ、ちょうど友達は外出中で、そのことで連絡が来ているのだと言う。娘の口振りからすると、届いたメールの内容は、「今外出中、もう少しで帰るよ」「これから帰るから帰ったらメールする」「もうすぐ家に着く」こんな感じだろうか。テレビでよくある現場からの中継のようで、リアルタイムな連絡に感心しながら、ふと相手のことを思う時間的な余裕がないことが気になった。「今頃どうしているかな」などと考える暇もない。いくらかのタイムラグがあって相手のことを考える心が育つのではないのかと思った。
 即、効果が出るということも、よく重要視される。「何をすれば一番効果的に単語が覚えられますか」「どの問題集が一番いいですか」というような質問をよくされる。「じゃあ今までにどんなことをしてきたの」と聞くと、「これからするから先生に聞いているんじゃないですか」と必ず言われる。意地悪なんかでは決してないのだが、ある程度自分自身で試行錯誤をしないと自分に合ったやり方は見つからない。
 勉強方法ばかりではない。ある日、トイレ掃除の生徒にこう言われた。「先生、今日は汚れてないからしなくていいでしょう。」「汚れてないと思ってもきちんと便器ぐらい磨いてよ」「そんなん、時間の無駄でしょ。」学校における掃除というのは汚れだけが基準でないと思うのだが、なかなかわかってもらえない。教室掃除においても、「机をいちいち動かして掃除するより、机の間を丁寧に掃いていけばいいんじゃないですか、その方が早く終わるし、人数も少なくてすみますよ。」なるほど。協力しながら作業をしたり、全体に目を配りながらやることを見つけるということをして欲しいのだが。長い目で見れば、それぞれの活動の意味がわかるのだろうが、これもわかるようになるまでタイムラグが生じるのかもしれない。
 そう言えば、留学中にボランティアでメキシコの国境付近に行ったことがある。ゴミの山近くで、ぎりぎりの生活をしている家族を訪れるものだった。途中、小さな店に立ち寄って、リーダーに飲みたくもないぬるいサイダーを買うように言われた。明らかに不満そうな私に彼女が厳しく言ったのを覚えている。「冷たい飲み物がほしいというのは、あなたのワガママよ。このサイダーを飲むことにどんな意味があるのか考えたらどう?」お金を出せば、当然それだけのものが手にはいると思っていた私はびっくりしてしまった。一本のサイダーのお金でも、わずかな収入として彼らの生活を助けることに考えが及ばなかったのだ。
 世の中はどんどん忙しくなって、時間がかからないことが重要視されてきている。しかし、よくよく考えてみると、無駄な経験なんてないのだと思う。いろんな視点から考える時間を意識的に持つことができれば、何気ない行動にも意味があることがわかるのではないだろうか。
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