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『相談課便り』第15号 コンテンツ
"Tuesdays with Morrie"のこと 校長
板谷 正夫
「いいかげん」という大切さ 一色 節二
「言い訳は進歩の敵」 香取 正光
「いじめ問題・悩みに関する調査」のまとめ 松本 雅子


<平成20年12月発行>
 <表面>
 <裏面>

 "Tuesdays with Morrie" のこと   校長 板谷 正夫
 5月の連休明けから土曜講座として、冒頭題の英語のペーパーバックを1年生と読んでいます。今10回を終えて100ページを過ぎました。当初から、@先へ先へと読む、A話を楽しむ、B有用な英語表現を学ぶ、という3点を目的としてきました。この本は、約10年前NHK出版から「モリー先生との火曜日」として出ていますので読んだ人もいるでしょう。
 この本は、売れっ子のジャーナリストが偶然テレビで大学時代の恩師であるモリー先生を見たところ、先生は難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)に冒され、死期が迫っていた。二人は16年ぶりに再会し、火曜日にベッドの上で授業が始まる。授業のテーマは、週毎に「世界」、「後悔」、「死」、「家族」等々であり、今半ばまで読み進んでいて、いよいよ「人生の意味」について佳境に入ろうとしています。
 一方で、この本には、身体的な衰えを表す多くの表現に正比例して、精神的な豊かさに関わる表現が数多く出てきます。少し拾っても、例えば、touchy-feely, heartfelt, being human, relating to others, something close to your heart, softness, passionate, warmly, at peace, inspirational, serene, calm 等々です。この視点から読んでいっても興味深いものです。
 それにしても、重篤な病気に罹っていても本当に幸せそうに見えるモリー先生は、他の人たちをまた幸せにしながら生きているのです。彼の周りにはいつも、家族、教え子、同僚、ディスカッション・グループ、ダンス仲間らがいます。それぞれの人がモリー先生のそばにいて話をしたり、介助をしたりしているだけで幸せを感じているのです。人は、愛情や喜びや悲しみなどを他人と分かち合っていくことができれば、幸せなのです。誰もが求め続けている幸福は、実は私たちが思っているほど遠く手が届かないところにあるものではなく、私たちのすぐそばにあるものなのだと思わずにはいられません。
 皆さん、どうぞよいお年をお迎えください。

 「いいかげん」という大切さ  一色 節二
 世界は今、80年前の世界恐慌以来の経済危機に直面しています。直接的な原因はアメリカの金融危機にありますが、遠因は冷戦の終焉にあると考えられます。1989年冷戦が終結しソ連が解体すると、アメリカは高らかに勝利宣言をしました。そして、アメリカが掲げてきた「自由主義・市場主義」が普遍的な価値であることが実証されたとして、これをグローバリズムの名の下に世界に押し広げていきました。「自由主義・市場主義」が究極的価値として絶対視され、異なる価値観を認めず世界が閉じられたとき、現在の危機は必然性を持ったのではないかと思います。現在アメリカが陥っている金融危機は、「自由主義・市場主義」の逸脱ではなく、「自由主義・市場主義」の純粋化として生起したものだと思います。世界が閉じられてしまうと、後はそれを如何に効率的かつスピーデイに追求するかということだけが課題になるからです。批判され反省されるべきは「自由主義・市場主義」それ自体というより、「自由主義・市場主義」を唯一絶対的な価値とみなす思考の方です。
同様のことが、「個人主義」思想についてもいえると思います。自己を中心にして周りの世界を観、主体的に行動することを第一義とする生き方は、「自由主義・市場主義」思想とともに普遍的な価値として主張され、広く社会に定着しているようにみえます。
確かに、戦前の滅私奉公が説かれていた時代を潜り抜けた直後には、「個人主義」は輝いていたでしょう。しかし、国家や地域共同体という「公」のみならず家族がもつ共同性まで衰弱してくると、バランスは崩れ、「私」が異様に突出してしまいました。本来、「私」と「公」は対概念であり、それぞれもう一方の存在を前提として成り立つ補完関係にあるものです。個も類あるいは共同性と対になってはじめて意味をもちます。「個人主義」は自己実現に最高の価値を置きますが、自身を対象として自己実現などできません。自己実現は、自然や社会や他者など自己の外にある公的なものとの関係性を離れては存在しません。両者のバランスや関係性を捨象し、一方を絶対視して世界を閉じてはいけません。強いて行えば、社会は豊かさを失い、人間は心身に失調をきたすでしょう。
日本の代表的な精神療法に、森田療法と内観療法という二つの療法があります。森田療法は、一定期間の臥褥を経た後,ものごとに囚われた意識はそのままにして作業を行う療法です。内観療法は、隔離された部屋で、幼少時から出会った人々とりわけ母親に対して「してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」を黙考し想起させるものです。森田療法の場合は、周囲の人々に対し過剰に意識しすぎて、対人恐怖に苦しむ神経過敏な人に、静かに自己を押し出す(「公」に対して「私」を主張する)ことを説いているのではないかと思います。内観療法の場合は、自分を大事にするあまり、自己中心的にしかものを見ることができなくなった人に、相手の立場に立って自分を見つめなおすこと、そして自分が如何に多くのものの支えによって存在しえているかを気付かせるものではないかと思います。
方向性は逆のように見えながら、二つの療法はともに関係性のあり方を再認識させようとするものではないかと思います。関係性の回復、換言すれば公私のバランスを保つことが、病から脱却する道だと考えられているのでしょう。福岡伸一さんによれば、生命は「可塑性とダイナミズムをもった平衡状態」として存在するといいます。
私たちは、異質な価値を抱えて生きています。それが異質だから、あるいは相対立するからといって、簡単に一方を捨象しないことが大切です。矛盾するようにみえることを自己の内にどのように保つか、それがその人の個性であり人格であるといっても過言ではないと思います。矛盾に悩んでいる人は信用できますが、悩まない人は危険です。大切なのは、バランスつまり加減です。「好い加減」という言葉は、本来「適度」という意味でしたが、現在ではほとんど好い意味では使われなくなりました。それは、現代社会が多元的な価値の間に適度な調和を保てなくなってきていることの現れではないかと思います。私たちはもう少し「好い加減」に生きることが大切であり、自然なことだと思っています。

 「言い訳は進歩の敵」  香取 正光
 自分は、今でこそその面影はないが、「神童」と呼ばれた小学校3年生から剣道に携わっている。日本代表でアメリカ遠征をするなど、ずっと剣道一筋だった。(いつもは謙虚な自分らしくない自慢をしてしまった…。)いつの頃からか忘れたが「武士」の生き方に感銘を受け、それは自分自身の生き方に大きな影響を与えた。
 もともと「武士」とは庶民に対しては超越的な存在であったが、自分自身の生き方の美学を持ち、自ら道徳的な規範を定め行動の模範を示すことを実践してきた。礼儀作法や剣道の所作などにも武士の規範を取り入れたものがあり、敵と味方、上下の区別は刀を置く位置や座る場所などで厳格に決められたものであった。それは政府とか、朝廷とかの権力が決めたルールではなく、武士自身が「武士の精神」として受け継ぎ確立していったものである。
 現在プロ野球・楽天の監督である野村克也氏が、十数年前、ある試合後のインタビューでその日の試合を振り返って述べた一言に衝撃を受けた。「言い訳は進歩の敵である。」今まで「言い訳」についてはあまり深く考えたことが無く、ただ単に言い訳はだめだという意識だったが、これを聞いたときにすっと胸に落ちるものがあった。自分の今までの人生はどうなんだ?そして、何度となく言い訳をしてきた自分は成長(進歩)してきたのだろうか?
 この言葉を胸に、日々過ごしてみると、いろんなことに気づかされた。そして、言い訳をして自分をごまかす人生を歩むのではなく、失敗から学び、人間として進歩していきたいという思いが強くなった。そして、この思いを生徒に対しても発信していった。「おまえらはどうなのだ?」…と。
 剣道部には試合で負けたときに、監督である自分に言い訳をする部員はいない。心の中までは分からないが、表面上は決して言い訳をしない。審判員の判定、体調、相手…言い訳すればきりがない。しかし、次の試合を勝とうと思うならば、言い訳をせず結果を真摯に受け止め、さらに研究努力しなければならない。当たり前のことではあるが、人間は弱いのでそれができないことの方が多い。普段の練習から「結果は自分の責任である」とか「部活動を勉強の言い訳にするな、勉強を部活動の言い訳にするな」などと部員には言ってきた。その代わり自分も言い訳をしない。生徒の試合結果はすべて監督である自分の責任…だからその結果についても言い訳はしない。インターハイ予選も、インターハイも、国体も…監督の立場で携わったすべての試合結果は自分の責任だと思っている。その苦しさを部員達は知ってか知らずか、彼らもまた、言い訳をしない。
 剣道では相手に礼を尽くす。それは自分の弱さや足りないところを、試合の場で相手が教えてくれるからである。つまりそのような修行の場に「言い訳」は全くそぐわない。剣を学び自分の魂を鍛え高めようとするものは、自分の未熟さや弱さを決して何か他のもののせいにしてはならないのだ。これも武士の美学である。
 人間は誰でもつい言い訳をしてしまう。仕方ないことであるが、果たして言い訳をすることによって自分が成長するだろうか?結果に対して、自分で分析し反省する気持ちを持てば言い訳をしなくなるし、人間としても成長していく。結構そんな簡単なことが、自分のプライドを守るためにないがしろにされているのではないか?何か失敗したときに、相手が自分に何かを教えてくれている…そのことに気づけないでいることはないか?自分を守るためだけに、通用しない幼い言い訳をしてはいないか?自分で最後まで責任をとっているか?(自分のケツは自分で拭いているか)そして今、この瞬間にも進歩し続けている自分がいるか?自分自身にもずっと問い続けている。
 「言い訳は進歩の敵である」人間として、剣道に携わるものとして自分なりの生き方の精神、自分なりの武士道を貫きたい。そして、永遠に成長し続ける魂を持っていたいものである。

 「いじめ問題・悩みに関する調査」まとめ  松本 雅子


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