私が大学を選ぶときの条件の一つは、必ず下宿できるところ、であった。別に親と喧嘩していたわけではないし、それどころか、仲良く過ごした18年間だったような気がする。それでも、高校を卒業したら、親元を離れて生活すると堅く決心していた。親元から通学する方が何かと便利だろうし、経済的にも負担をかけなくて済むことぐらいは18歳の高校生にもちゃんと分かっていた。それでも、親元を離れたかった。一人で生活したかったのだ。
大学の一回生の夏に、石川県の能登半島を旅した。一緒に旅する友人達がいなかったわけではないが、一人旅に意義を見いだしていたからだろう、誘いの言葉さえかけることはなかった。『天地人』の上杉謙信が攻略した七尾城を巡り、それから輪島まで行った。国鉄七尾線は、鈍行で早朝ひとりで電車に乗っていると朝日が登ってきたことを覚えている。輪島に宿泊した夜に御陣乗太鼓(ごじんじよだいこ)を見た。この地に攻め込んだ上杉謙信勢を、村人達が鬼面や海草を付け陣太鼓を鳴らして驚かせ追い払ったのが起源とされる太鼓だ。荒々しく、孤独なこころの中に土足で踏み込んでくるといったような太鼓であった。御陣乗太鼓は私の大好きな太鼓になった。
二回生の夏には佐渡島に渡った。梅田発夜行の雷鳥だったと思うが、早朝に新潟に着いた。新潟港から両津港までの佐渡汽船に乗って佐渡を歩いた。佐渡には廃屋寺が少なくなく、巡る寺は全て廃屋寺だったように記憶がある。佐渡の金山を訪ねてみたが、江戸時代を彷彿させる佇まいは最早なかった。途中でレンタカーを借りて島のあちこちを訪ねていたとき、梅雨明けの豪雨に見舞われ、後続車と接触事故を起こした。土砂降りの中の現場検証。『冷たい雨』。その後に両津警察署に行った。初めてのパトカーだった。
三回生の冬には、五條市から十津川を下り、瀞八丁(どろはっちよう)経由で新宮・熊野を旅した。雪深い十津川から早春の熊野を目指してバスで旅をした。『枯木灘』をどうしても見たかった、ただそれだけの理由だった。南方熊楠の神島を訪ねるつもりだったのに、訪ねることはできなかった。理由は思い出せない。
昔はこうやって一人旅に出ていた。誰ともおしゃべりせず、何も考えず、ぼうっとしているうちに目的地に着くのがいい。自分のペースで生きていればよい。降りたい駅で降り、泊まりたい町で泊まればよい。誰にもペースを合わせる必要がない。そんなのんびりした一人旅、孤独を癒す一人旅をするために、親元を離れたのかもしれない。
|
|