「越境するときに物語は生まれる。」これは、立松和平氏の講演の中の言葉だ。先日立松氏の訃報に接し、そういえばと思い出した。
2月11日付の「天声人語」には、大学に合格し故郷栃木から上京して間もない立松氏が、食堂でメニューをにらんで、カレーライスでもハヤシライスでもなく、一番安いオニオンスライスを注文した話があった。「オニオンス・ライス」つまり「玉葱ご飯」と間違えたというオチだが、「玉葱の上にかかった花かつおが人を小馬鹿にしたように揺れていた」という氏の回想には、何かしら悲しくて片頬でクスリと乾いた笑いを浮かべずにはいられない。この話は講演の中でも話されていたが、実は話し手を変えて、オニオンスライスを玉葱ご飯と間違えた笑い話、いわゆるネタとしてよく使われているらしい。しかし、栃木訛りの訥々とした立松氏の口調からは、田舎から出てきた青年の方言に対する恥じらいや、初対面の「東京」に冷たくあしらわれた切なさが伝わってきた。大学合格・上京というのは十代後半の若者にとってはまさに「越境」であったろう。
講演では、おとぎ話の「一寸法師」を例にして語られた。子供のいない老夫婦が住吉の神に願をかけると、老婆に子供ができた。身長は一寸(約3p)、それで一寸法師である。この一寸法師が終生この夫婦と共に平凡に暮らしました…メデタシメデタシ…では物語にはならない。ある日彼はお椀の舟に箸の櫂、針の刀に麦わらの鞘という出で立ちで都へと出発した。その後のお話はご存知のとおり。鬼の打出の小槌を手に入れて身体を大きくし、金銀財宝を手に入れて、お姫様と結ばれて幸せに暮らしましたとサ。と、これはおなじみのサクセスストーリー。立松氏によると、老父母の庇護の下で生まれ育った安住の地から、境を越えて異界へと踏み出したからこその結末ということだった。
しかし私は、果たしてそれだけでこの物語は成立したのだろうかと思う。一寸法師のような小人の話は古くから伝わっており、神話に出てくるスクナヒコナノミコトにまで遡る。「田螺息子」など類話も多い。『御伽草子』の中では一寸法師は知恵者として描かれている。少々長くなるがかいつまんでみよう。
住吉大明神から授かった小さな子供は何歳になっても大きくならない。「ただ者にてはあらざれ、ただ化物風情にてこそ候へ」と老夫婦から疎まれた一寸法師は、「いづかたへも行かばや」と京を目指す。
住みなれし難波の浦を立ち出でて都へ急ぐわが心かな
石もて追われたに等しい旅立ちであったが、都へとはやる気持ちは抑えられない。二度と戻れない背水の陣の「越境」である。都で宰相殿の姫君に一目惚れした一寸法師は一計を案じ、姫君の口元にわざと米粒をつけて自分の米を盗ったと大騒ぎ、それにかこつけて姫君を自分のものにしてしまう。身に覚えの無い姫君は「あさましきこと」と思うがどうしようもなく、二人で鳥羽の港から船出して鬼の住む島へとたどり着く。襲ってきた鬼に一口に呑まれてしまった一寸法師は、鬼の目から飛び出してくる。鬼に「曲者」と呼ばれて、何度呑まれてもまた飛び出してくる。とうとう鬼は「おぢおののきて」「これはただ者ならず」と、打出の小槌をうち捨てて逃げてしまった。鬼の小槌で背を伸ばし、金銀財宝を手に入れた一寸法師は再び都へと戻ってくる。噂は宮中にも及んでおり、帝からのお召しがあって参内すると、「これは賤しからず」と先祖についてのお尋ねがあった。かの老夫婦の尊い家柄が、実はと一寸法師の口から明かされて、中納言の位にまで出世するのである。姫君との間には若君も生まれて、老夫婦も都へ呼び寄せて、家はますます栄えるのだった。
鬼に象徴されるのは、疫病や天災などの人為を超えた災いや、傍若無人の乱暴者であろうし、それを打ち砕く「一寸法師」を読む人は溜飲を下げたに違いないが、鬼の立場からすると神の子どころか小賢しい曲者である。
話を戻そう。つまり「越境しただけでは物語は生まれない」。越境は単なるきっかけだろう。たしかに越境するには勇気が必要かもしれない、しかしその後の一寸法師の活躍はなりゆきまかせではない。自分の能力を最大限に生かす積極性、吸収できるものは全て吸収する貪欲さ、そして周到な計画と強い意志が必要だった。
日本人が揃って近代の洗礼を受けた江戸末から明治にかけて、これもまた「越境」である。坂本龍馬、吉田松陰、西郷隆盛、……。多くの人が好む、あの時代に生きた一人ひとりに「物語」がある。彼らが繰り返し小説やドラマ、映画などで描かれるのは、人が越境して自分の物語を紡ぎ出したい願望を、彼らの生き様を通して満たしたいからなのだろう。平凡な日常で一歩を踏み出すチャンスをうかがい、自分なりの生き方を目指すのはとても難しい。いろんな意味で現代社会は複雑で生きにくい。こちらを立てればあちらが立たず、思い通りの振る舞いが出来ないことが多いし、無理を通そうとすると自分も周りも傷つけてしまいかねない。そんな中でも何とか折り合いをつけてゆくには、自分というものを良く知ったうえで、知恵を絞って活路を見出し、行動に移すしかないのだ。そこから「物語」が始まる。
再び立松氏の話に戻る。行動派作家として知られ自然環境保護問題にも取り組んだ氏は、「天声人語」によると、世界を旅し南極にまで足を伸ばし、知床に山小屋を構え、諫早湾の干拓にも物申し、足尾の山に木を植えた。
「老後の楽しみは木を植えること」で、何百年も伐採しない森を作り、法隆寺などの古い寺院を残したいとの夢があったそうだ。私は『木を植えた男』(ジャン・ジオノ著)を思い出した。この絵本の主人公を地で行く立松氏の人生は、まさに「物語」だった。 |
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