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『相談課便り』第20号 コンテンツ
木を植えた男 田中 晴美
「自主自律」「自重互敬」的話・・・ 時岡 英雄
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 万代 侑佳
高校時代を振り返って 伊東 賢吾


<平成22年3月発行>
 <表面>
 <裏面>

 木を植えた男  田中 晴美
 「越境するときに物語は生まれる。」これは、立松和平氏の講演の中の言葉だ。先日立松氏の訃報に接し、そういえばと思い出した。

 2月11日付の「天声人語」には、大学に合格し故郷栃木から上京して間もない立松氏が、食堂でメニューをにらんで、カレーライスでもハヤシライスでもなく、一番安いオニオンスライスを注文した話があった。「オニオンス・ライス」つまり「玉葱ご飯」と間違えたというオチだが、「玉葱の上にかかった花かつおが人を小馬鹿にしたように揺れていた」という氏の回想には、何かしら悲しくて片頬でクスリと乾いた笑いを浮かべずにはいられない。この話は講演の中でも話されていたが、実は話し手を変えて、オニオンスライスを玉葱ご飯と間違えた笑い話、いわゆるネタとしてよく使われているらしい。しかし、栃木訛りの訥々とした立松氏の口調からは、田舎から出てきた青年の方言に対する恥じらいや、初対面の「東京」に冷たくあしらわれた切なさが伝わってきた。大学合格・上京というのは十代後半の若者にとってはまさに「越境」であったろう。

 講演では、おとぎ話の「一寸法師」を例にして語られた。子供のいない老夫婦が住吉の神に願をかけると、老婆に子供ができた。身長は一寸(約3p)、それで一寸法師である。この一寸法師が終生この夫婦と共に平凡に暮らしました…メデタシメデタシ…では物語にはならない。ある日彼はお椀の舟に箸の櫂、針の刀に麦わらの鞘という出で立ちで都へと出発した。その後のお話はご存知のとおり。鬼の打出の小槌を手に入れて身体を大きくし、金銀財宝を手に入れて、お姫様と結ばれて幸せに暮らしましたとサ。と、これはおなじみのサクセスストーリー。立松氏によると、老父母の庇護の下で生まれ育った安住の地から、境を越えて異界へと踏み出したからこその結末ということだった。

 しかし私は、果たしてそれだけでこの物語は成立したのだろうかと思う。一寸法師のような小人の話は古くから伝わっており、神話に出てくるスクナヒコナノミコトにまで遡る。「田螺息子」など類話も多い。『御伽草子』の中では一寸法師は知恵者として描かれている。少々長くなるがかいつまんでみよう。

 住吉大明神から授かった小さな子供は何歳になっても大きくならない。「ただ者にてはあらざれ、ただ化物風情にてこそ候へ」と老夫婦から疎まれた一寸法師は、「いづかたへも行かばや」と京を目指す。

  住みなれし難波の浦を立ち出でて都へ急ぐわが心かな

石もて追われたに等しい旅立ちであったが、都へとはやる気持ちは抑えられない。二度と戻れない背水の陣の「越境」である。都で宰相殿の姫君に一目惚れした一寸法師は一計を案じ、姫君の口元にわざと米粒をつけて自分の米を盗ったと大騒ぎ、それにかこつけて姫君を自分のものにしてしまう。身に覚えの無い姫君は「あさましきこと」と思うがどうしようもなく、二人で鳥羽の港から船出して鬼の住む島へとたどり着く。襲ってきた鬼に一口に呑まれてしまった一寸法師は、鬼の目から飛び出してくる。鬼に「曲者」と呼ばれて、何度呑まれてもまた飛び出してくる。とうとう鬼は「おぢおののきて」「これはただ者ならず」と、打出の小槌をうち捨てて逃げてしまった。鬼の小槌で背を伸ばし、金銀財宝を手に入れた一寸法師は再び都へと戻ってくる。噂は宮中にも及んでおり、帝からのお召しがあって参内すると、「これは賤しからず」と先祖についてのお尋ねがあった。かの老夫婦の尊い家柄が、実はと一寸法師の口から明かされて、中納言の位にまで出世するのである。姫君との間には若君も生まれて、老夫婦も都へ呼び寄せて、家はますます栄えるのだった。

 鬼に象徴されるのは、疫病や天災などの人為を超えた災いや、傍若無人の乱暴者であろうし、それを打ち砕く「一寸法師」を読む人は溜飲を下げたに違いないが、鬼の立場からすると神の子どころか小賢しい曲者である。

 話を戻そう。つまり「越境しただけでは物語は生まれない」。越境は単なるきっかけだろう。たしかに越境するには勇気が必要かもしれない、しかしその後の一寸法師の活躍はなりゆきまかせではない。自分の能力を最大限に生かす積極性、吸収できるものは全て吸収する貪欲さ、そして周到な計画と強い意志が必要だった。

 日本人が揃って近代の洗礼を受けた江戸末から明治にかけて、これもまた「越境」である。坂本龍馬、吉田松陰、西郷隆盛、……。多くの人が好む、あの時代に生きた一人ひとりに「物語」がある。彼らが繰り返し小説やドラマ、映画などで描かれるのは、人が越境して自分の物語を紡ぎ出したい願望を、彼らの生き様を通して満たしたいからなのだろう。平凡な日常で一歩を踏み出すチャンスをうかがい、自分なりの生き方を目指すのはとても難しい。いろんな意味で現代社会は複雑で生きにくい。こちらを立てればあちらが立たず、思い通りの振る舞いが出来ないことが多いし、無理を通そうとすると自分も周りも傷つけてしまいかねない。そんな中でも何とか折り合いをつけてゆくには、自分というものを良く知ったうえで、知恵を絞って活路を見出し、行動に移すしかないのだ。そこから「物語」が始まる。

 再び立松氏の話に戻る。行動派作家として知られ自然環境保護問題にも取り組んだ氏は、「天声人語」によると、世界を旅し南極にまで足を伸ばし、知床に山小屋を構え、諫早湾の干拓にも物申し、足尾の山に木を植えた。

 「老後の楽しみは木を植えること」で、何百年も伐採しない森を作り、法隆寺などの古い寺院を残したいとの夢があったそうだ。私は『木を植えた男』(ジャン・ジオノ著)を思い出した。この絵本の主人公を地で行く立松氏の人生は、まさに「物語」だった。

 「自主自律」「自重互敬」的話・・・  時岡 英雄
 「ジャータカ」という古い物語に次のような話があります。
 森が火事になりました。そこで、そこに棲む動物たちは火を消そうと力を合わせました。しかし、火はなかなか消えず、それどころかどんどんと大きくなり、やがてどうすることもできないくらいになりました。そこで多くの動物、ライオンやトラ、ゾウやリスたちは火を消すのをやめ、森から安全なところへと避難し、燃える森を遠くから眺めることしかできませんでした。ところが、一羽の小鳥だけは、なおも火を消すことを続けていたのです。体のあちこちが傷ついているにも関わらず、懸命に火を消すことを続けていました。火を消すといっても、沼に飛んでいって自分の羽を濡らし、森へ戻ってきて火の上でその羽をばたつかせ、わずかに二、三滴の水を落とすだけです。それを見ていたライオンやトラ、ゾウやリスたちは小鳥に言いました。「もうやめなよ、小鳥さん。危ないよ、やめたほうがいい。わずか数滴の水でこの火が消えるわけがない。君のやっていることは無駄なことだ。」動物たちは次々と忠告しました。しかし、小鳥はそんな動物たちにこう言ったのです。「ご忠告ありがとう。わたしだって自分の力のほどを知っています。でも、わたしは自分が今まで棲んでいた森が焼けるのを黙って見ていられないのです。だから、わたしは火が消せる、消せないではなく、自分にやれることをしっかりとやっておきたいのです。」

 わたしたちは何かをするとき、まず「できるか、できないか」を考えてしまいます。大切なのは「できるか、できないか」を考える前に「いま自分のやれることをしっかりとやる」ということです。しかし、この話の教えはそれだけではないのです。ここでは、傍観しているライオンやトラ、ゾウやリスたちも見習うべきと教えます。どうすることもできないと考え、安全な場所に避難して森の火事を傍観しているライオンやトラ、ゾウやリスたちの行為も決して間違った行動ではありません。小鳥の行為も火事を傍観した他の動物たちの行為も、どちらも尊重することができるし、どちらも非難してはいけないという話です。わたしたちは他人の生き方を非難せずに、自分の考えと違っていても、他人の生き方を理解すべきです。もしも、自分が小鳥の立場になったような時でも、傍観している他の動物たちの気持ちや考え方をわかってあげることが大切です。自分が傍観しているライオンのような立場にあっても、小鳥の気持ちや考え方をわかってあげるべきなのです。

 それぞれが「自分らしく」あることがほんとうであり、さらに「自分らしく」を見つけ続ける、「自分らしさ」に気づき続けることが、ほんとうに生きるということなのだと思うのです。


 「為せば成る 為さねば成らぬ何事も  万代 侑佳 
 昔から、深く考えるより先に行動に移してしまうタイプの子で、失敗することもたくさんあったが自分ではこの性格が結構気に入っている。23年間生きてきて、そう思えるようになった話を、部活動を中心にちょっと紹介したいと思う。

 小2の時2つ下の弟が柔道をやりたいと言い始め、私も入会した。理由は弟がやるなら私もやりたいと思ったからだ。女の子が自分一人だけなんてことは全く気にせず、最盛期は年上の男の子にも負けない自信があった。

 中学校では美術部に入った。入部の理由は絵が上手かったからではなく、全員が何かの部活に入らなくてはならなかったのと、他の部は先輩がみな恐ろしく怖いという噂を聞いたからだ。私にとって放課後の美術室は、友達とおしゃべりをし、日頃のストレスを発散できる素敵な空間となった。

 高校は山岳部に入部した。理由は、部紹介の先輩たちがとても楽しそうだったから(と男の先輩がかっこよかったから)だ。山の知識など全くないし、山に登ったこともなかった。だが、苦労して登った末に見る山頂からの景色の虜になり、20sの荷物は何のその、高校3年間は山三昧で過ごした。養護教諭を目指すようになったのも高校生の時だった。教師に憧れていたものの、どの校種の何の教科を目指すか決めかねていたとき、ふと小学校の優しかった養護教諭の先生の顔が思い浮かんだ。養護教諭…いいかも!中高と無遅刻無欠席で、もちろん保健室のお世話になったことなどなかったが、なぜかとても興味を惹かれるものがあった。それからは高校生ながらに自分が目指す養護教諭像をたて、大学進学に向けて一生懸命勉強した。

 後期試験まで粘り、目標だった岡山大学の養護教諭養成課程に進学した。大学では、また何を思ったか競技ダンス部(社交ダンス部)に入部した。理由は、あのお姫様みたいな衣装を着て踊ってみたい!ただそれだけ。柔道、美術、山岳ときて、まさかの社交ダンス。自分でもビックリだが、やってみたいと思ったのだから仕方ない。ダンスの経験なんて高校の選択体育で踊ったことぐらいしかなかったが、他大学との試合から全国各地に友達が出来たし、ダンス部の集大成である夏と冬の全日本大会に、レギュラーとして出場することも出来た。

 そして昨年の3月に大学を卒業し、教師1年目という不安と期待に胸を膨らませながら朝日高校の校門をくぐった日のことを、今でもはっきり覚えている。

 同じ部活をずっと続けてきたわけでもなく、一見どれも将来役に立つのかわからないことばかりだが、大学で取った柔道の授業では余裕で優(大学の評価には優・良・可・不可がある)を取ることが出来たし、美術部の友達とは、今でも愚痴を言い合える茶飲み友達を続けている。また山岳とダンスは共通性がほとんど無いが、朝日高校で山岳部とダンス部の顧問に就けたことから、自分の専門性が最大限活かせる場を頂くことが出来た。そして何より憧れ続けた養護教諭という職に就き、たくさんの生徒や先生方、保護者の方とも出会え、この1年間本当に充実した毎日を送ることが出来た。だが養護教諭を目指そうと思った最初のきっかけは、あの時ふと思い浮かんだのが養護教諭の先生だったからかもしれない。

 自分のことを振り返ってみると、きっかけは何気ないことでも結構色々なことに挑戦してきたような気がするが、挑戦には成功ばかりではなく失敗がつきもので、嬉しいことの倍くらいは悔しいことがあった。でも後悔という気持ちはほとんどない。なぜならその時自分が一番良い(やりたい)と思ったことを選んできたからだ。

 保健室にいると「楽しいことが何もない」とか、やる前から「僕(私)には出来ない」とか、「そんなことをしても意味がない」といった言葉を耳にする。確かに今はそう感じることがあるかもしれない。でも、当たり前だけれど、やってみないと何も出来ないし、前に進むことも出来ない。関係ない、無意味だと思っていたことが、ある日突然、自分にとってとても価値のあるものになるかもしれない。誰にもわからないが、誰にでも訪れるチャンスはあると思う。そんな風に考えると、私は自分のしていることが今度はどんな形で自分に返ってくるのかと思い、いつもわくわくしてしまう。そのおかげかはわからないが、「先生は悩みなくて、毎日楽しそうで良いね」とよく言われる。悩みがないわけではないのだが、そう思われることに悪い気はしない。

 どんなに考えても、悩んでも、自分が一歩踏み出さなければ状況は変わらない。恐れず、少しだけ勇気を出せば、新しい何かに出会えるのではないだろうか。

 高校時代を振り返って  伊東 賢吾

 7歳から剣道を始めて、今年で20年目になりました。改めて数字にすると、ずいぶん長い間続けてきたんだなと思います。これはその20年の中で最も濃密で、忘れがたい3年間の話です。
 高校時代は、部活動(剣道部)に明け暮れる毎日でした。目標は「全国制覇」=インターハイ優勝です。剣道に限らず、ほとんどの競技で高校生の目標となる大会ではないかと思います。当時、勉強と剣道を両立できてインターハイを狙える高校は朝日高校だけでした。朝日高校に進学して、香取先生にご指導頂けたことを本当に良かったと思っています。

 県大会は6月の第1週でした。当日は気合いが入り、部員全員で勝つことだけを考え必死に戦いました。インターハイに行くために、大げさかもしれませんが、命を賭けて練習してきたと思っていたから、「勝つしかない」という思いでした。優勝が決まった瞬間のことはあまりよく覚えていません。香取先生が試合のあとに、1年前優勝を決めたときにはしてくれた握手をしてくれなかったことはよく覚えています(笑)。ただ、これも香取先生の考えで、「こんなところで満足するな。おまえらの目標は全国優勝だろうが!」という無言の喝だったのだろうと今となっては思います。何より、当時、香取先生と私達生徒との間に、ありきたりな言葉や行動は必要なかったかなとも思います。顔を見れば、褒めてくれているような気がしたし、喜んでくれていると思いました。

 インターハイは熊本県で行われました。この日のために苦しい稽古に耐え、楽しそうなクラスメイトの会話を横目に道場に直行する毎日を過ごしてきたと思えば、自然に緊張もしたし、力も入りました。
 実はインターハイのことは、ほとんど覚えていません。こんな道路を通ったとか、あんなホテルに泊まったという部分的な記憶はあるのですが、試合に関してはほとんど記憶にありません。どうやって予選リーグを抜けたか、自分はどうやって勝ったのか、そういうことは一切覚えていません。一番忘れたい記憶だけがはっきりと残っています。負けた試合の、取られた一本です。小手を打たれて負けたのですが、そのときの感触は本当に今も右手に残っています。私の試合が終わって大将が泣きながら試合をしているのを見たり、観客席には緊張して試合を直視することもできずに祈るように手を握りしめて応援してくれていたチームメイトや保護者の人たちの姿や、これはもうなんとも表現できない香取先生の表情など、自分で自分を責める要素はそこにたくさんありました。人生の中で一度だけどこかに戻ることができるとしたら、どんなに楽しかった・うれしかった瞬間よりも、あのときに戻ってもう一度試合させて欲しい・・今度は絶対勝つからと思っています。今でも本当に悔しく、苦い思い出です。ただ、あの時の、あの経験がなかったら今の自分はなかっただろうと思います。あの時全国制覇できなかったから、今でも全国制覇を目指して努力することができます。高校時代の自分が、今までの人生の中で一番誇れる自分であることは言うまでもありません。そして今思います。「高校生だったからあそこまでやれたんだ」と。

 人生において、自分の中でこれ以上ないほど努力ができる期間というのはいくらでもあり、いつでもできるように思えますが、私はそうではないと思います。高校生の、その時にしかできない燃え上がるような、無駄に過ごす1分1秒を惜しむような努力が、私にはとても輝いて見えます。高校生活3年間という時間的な制限があるからこそ、一生分とも思える努力をすることができ、信じられない力を発揮することがあるのではないでしょうか。どんな分野でも高校生の魅力はそこにあると思います。みなさんも何か一つ、心底努力したと思えることを見つけてほしいと思います。

 自分が求める結果(目標)を得るために必要なのは、「その結果(目標)に見合う努力」をすることです。いい加減な気持ちや少しの努力で達成できるものはありません。私自身は、その努力が足りなかった部分で一生後悔するような失敗をしてしまいました。みなさんはそんな失敗をすることがないよう、苦しいこともあるでしょうが、日々努力して欲しいと思います。高校生活を最高のものにするために、今、最大限の努力をしてください。
一寸法師のぬりえカラー見本

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