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『相談課便り』第22号 コンテンツ
「見合い」と「やきもち」、そして「がんばる」 原 昭彦
高校時代のこと 高祖 幸男
「故郷を想う」 明石 幸子
「自分らしさ」の追求 時岡 英雄


<平成22年7月発行>
 <表面>
 <裏面>

 「見合い」と「やきもち」、そして「がんばる」  原 昭彦
  残念ながら恋愛や結婚の話ではない。 囲碁に「見合い」ということばがある。囲碁は基本的に陣取りのゲームである。「布石」とよばれる序盤戦においては、自分の陣地が大きくなるように石を配置していく。その際、ほぼ同じ価値を持った地点同士を「こことここは見合いになっている」というように使う。黒と白が交互に石を置いていくのだから、自分だけが有利になることはないはずだし、一方的に不利に陥るはずもない。ところが、弱いうちはどこが見合いの場所であるかの認識が十分出来ないので、相対的に価値の低い着手や不急の着手を繰り返し、気がついたときには劣勢になっているということがよくある。自分の石が連絡できているか、活きているかどうかといったことは部分の問題なので、少し打てるようになってくると、ミスをミスとしてすぐ認識できる。石が接触しない段階で、どの場所の価値が高いかという判断が的確にできるかどうかが初級者と上級者の違いということだろう。
 「やきもちを焼く」ということばもよく使われる。一手ずつ「見合い」の場所を交代に打つのだから自分の陣地も相応にはできているはずなのに、相手の陣地の方が大きく見えてしまい、無理な侵入をはかってしまうのである。相手の石が多い勢力範囲に入っていくのだがら、包囲され攻撃されて苦しくなっていく。さらに追撃されて、せっかくの自分の陣地に侵入されてしまう。なんとか脱出できても、不安定な石がいくつもできて全局的に不利な状況をつくってしまう。これを「薄くなる」と表現し、逆に自分の石が安定し攻勢をとれる状態になることを「厚い」とか「厚みがある」という。どうも、自分は「やきもちを焼く」度合いが強いらしい。目先の実利に目がくらんでしまうのである。やきもちを焼いて侵入した時点では、相手の陣地を減らして成果を上げたようでも、薄みがあるとこちらで石を取られ、あちらで侵入を許しということで、終わってみれば大差で負けているということを繰り返している。「厚み」という不確実な先行投資をするのが苦手である。初級者用の本には、「やきもちを焼いてはいけません。与えるべきところでは、相手にも与えなければいけません」と書いてある。「そのとおりだなあ」と思いながら読むのだが、なかなか実行できないでいる。
 やきもちを焼くということは、結局自信がないからである。自分の判断に自信がもてないので相手が気になってしまう。成算が持てないのに無理をしてしまい、最後は破綻してしまう。相手にも与えながら自分の必要なものは確保していく、部分にとらわれず全体のバランスをよく見て何が価値が高いかを判断する、ということが何事につけ重要であり熟練を要するということなのだろう。
しかし、劣勢だと判断できたら「ここは見合いだ」とは言っていられない。薄くなることは承知で無理をしなければいけない。多少の欠陥があっても最強の手順で反撃する。こういう打ち方を「がんばって打つ」と表現する。結果的に報われないことが多くても、座して負けを待つよりましである。冷静に状況を判断して必要なことをやっていくが、場合によっては無理をしてでも可能性にかけていく。残り時間は少なくなってしまったが、なんとか人生にも生かしていきたいものだと思っている。(もう一目でよいから囲碁も強くなりたいものです・・)

 高校時代のこと  高祖 幸男
  「藤村最中」ふじむらさいちゅう?何のこと?新種の昆虫?みんなポカーン?苦手な現代国語(現国といった)の授業だった。「若干」が口癖の先生が黒板に書かれた四字熟語?信州の土産で「島崎藤村にちなんだモナカ」のことだと聞いてナーンダ。たぶん漢字の不思議について話されたかったのだろう。授業ではとにかく漢字の書き取りと小テストをよくやった。
 人生の中でも高校時代ほど感性豊かなときはないだろう。初めての出会いや体験が数多くあるし,その一つ一つがとても新鮮で貴重である。多くのことに感動できるし,なぜか多くの思い出ができる。断片的ではあるが,さまざまな授業(個性的な?)が今でも思い出される。
 世界史の授業内容は興味をもった。第二次世界大戦前後の頃の内容だったか,「毛沢東」は今でこそ有名だが,以前は「けざわとう」と読む人が多かったとか,日本の戦況が不利になったときでもとにかく前に進むということで,退却を「転進」といった話しをされた。いろいろな国の歴史,その中でのさまざまな人々の思想や行動,人間模様・・・・。教科書の内容だけでは満足できずにもっと詳しく知りたくなり,図書館で「世界の歴史」−講談社?の全十数巻−を見つけてよく読んだ。おかげで年・人名など抵抗なく覚えられた。
 物理は感動が多かった。ミリカンの電気素量の測定の話。目に見えない小さな電子がもつ電荷量をどうやって測定したのか,彼の工夫の素晴らしさを知った。演示実験,生徒実験とにかく実験が多かった。霧箱の中の放射線の飛跡を観察したときは,肉眼では見えない放射線が実感できた。ある授業では生徒に校舎の1階から3階までダッシュで駆け上がらせ,時間と体重から本人の馬力(仕事率)を算出させるなど印象に残る内容が多かった。
 化学はとても几帳面な先生で授業ごとに,手書きで学習内容をまとめたプリントを配布された。ノートを用意,実験をすれば目的・使用器具と薬品・操作・観察・考察すべてを記入して提出しなければならなかった。実験は好きだったけれどノートの提出は苦痛だった。覚えているのは濃硫酸と濃硝酸を使った「ベンゼンのニトロ化」の実験。とにかく注意深く慎重に行った。
 生物は遺伝の実験で,牛乳ビンでショウジョウバエの飼育。エーテルでハエを眠らせてピンセットで赤目・白目の個体数を数えた。牛乳ビンの中の飼料が異様に臭かった。
 体育はとにかくえらかった。走り高跳びは,それまでベリーロールで跳んでいたのが,背面飛び−オリンピックの影響?−の方がより高く跳べるということで,みんな真似して跳んだ。水泳の授業もあったが,次の授業は多くの生徒にとって睡眠タイムだった。
 英語は予習に時間がかかった−現在でも同じだろう−リーダーR,サイドリーダーS,グラマーGと3科目あった。RとSは面白かったが,ワンフレーズごと生徒を指名して和訳させられるので,予習していないときなどはたいへんだった。
 数学は定期考査の前日,徹夜をして猛勉強。次の日−寝なくても朝は明るくなるのがわかった−朦朧として受験した考査−たしかベクトルと複素数の内容だった−がこれだけは満点近かったのをよく覚えている。「微分・積分」を利用するとグラフの変曲点,面積や立体(回転体)の体積を求められることには興味を持った。
 学習内容の多くは未知との遭遇?いろいろな疑問,それを知りたいという気持ちや興味がわいた。分からなくて悩んだり困ったりすることも多かったけれど,分からないことが分かったとき,難しい問題が解けたとき−誰もが感じたことがあると思う−あの爽快感は忘れられない。もう何十年も前の,過ぎ去ってしまえばわずか三年間だったが貴重な高校時代の思い出である。

 「故郷を想う」  明石 幸子 
 昨年は県北の実家に住む私の両親の結婚50周年記念の年だった。「二人そろって元気に50年を迎えられることは本当に有り難いことだ。人間いつ何が起こるか分からないから、今年はみんなでお父さんお母さんの健康を祝ってあげよう」。両親と私、妹、弟の家族16人が、湯郷温泉の日本旅館でゆっくりお湯に入り、その後会席料理を食べながら両親の長寿を祝おうと、お盆休みにささやかながら家族の集まりが計画された。チームワークのよい我が家族、ひとたび話が出ると後は速い。寄せ書きの色紙の用意、当日の出し物の練習、記念写真の手配までトントン拍子に話は進んだ。「当日は万難を排して集まること」。孫達も皆やる気満々であった。関東の大学に通っている我が長男も忙しい実習の合間を縫って帰ってきたし、高校野球をしている甥も(無事?)甲子園出場を逃し、当日の集まりを邪魔するものは、もう何もないかのように思えた。ところがそんな祝福気分に水を差したものがいたのだ。
 2009年8月、兵庫県佐用町を一躍全国的に有名にしてしまった集中豪雨。岡山県でも美作市を中心に被害を及ぼし、土砂崩れで1名が亡くなった。その土砂崩れが起きたのは、まさに私が生まれ育った集落、亡くなったのは子供の頃から親しんできた「美智子おばさん」だった。子供の頃から、様々な恩恵を与えてくれていた自然が牙を剥いた瞬間であった。
 想えば、自然は子供の頃から恐ろしさの片鱗を見せていた。小学校の頃父がいないある台風の夜中、母に揺り起こされ、我が家の田んぼに入り込む冠水を防ぐため大雨の中、堤防を守る作業を手伝ったこともあった。それでも、子供心に「自然は雄大だ」と思ってこられたのは、両親の手で自然の恐ろしさから守られていたからかもしれない。
 県北の春は梅の香りから始まる。長い冬の終わりを告げるようにほのかな香りを漂わせる梅の花は「お雛様」の思い出をよみがえらせる。梅雨の頃、栗の花に混じって、ヤマユリの香しい匂いが里に漂う。草木を踏み分け、「私はここよ」と言わんばかりに匂っている花を集めに行ったものだ。蛍狩り、夏の小川での水遊び、村中にこだまする子供達の元気な声。収穫で、猫の手も借りたいほど忙しくしている大人達を尻目に田んぼで鬼ごっこに興じた秋の日々。かまくらを作り雪国気分を味わった厳寒の冬。
 だが自然の中で遊ぶことが唯一の仕事であったかというと、実はそうでもない。地域の子供は小学校3,4年になるとほとんどが週3回、町役場の職員の一人が主催している「そろばん教室」に行った。日頃学校では違う教室で勉強していた憧れの上級生と同じ教室で学べることに、ワクワクしながらソロバンの珠をはじいたものだ。近所の従兄弟達と自転車をこいで通ったのだが、冬の夜の自転車は寒いと言うより痛いと表現した方がよい。3人で一列になって自転車をこぐのだが、闇が後ろから迫ってくるようで一番後ろになった時の怖さは言い表せない。天空に青白く輝くオリオンの光が恨めしかった。当時自動車など一日に一度通るかどうかの山里であったが、それでも並列通行をするなどと思いもしなかった。
 小学校6年になると、これまたほとんどの子供達が週末2回、アメリカ帰りの方が経営する「英語塾」に通ったのだ。(ALT制度などありもしない30年前、それも県北の田舎、珍しい光景だ)その人の隣にはアメリカからのキリスト教の宣教師さんが住んでおり、自然の成り行きで、私は受験生となった高校三年の秋まで、教会に通い、お茶をいただきながら、英語で聖書を教えてもらっていたのだ。(現在聖書の教えはほとんど覚えていないが、温かい紅茶の香りは覚えているという不届き者だ)そしてまた、私には関西から嫁いできた祖母がおり、我が家には、お正月は従兄弟達が祖母のもとに集まり、皆で百人一首をするという習慣があった。「いにしえの奈良の都の八重桜・・・」「ひさかたの光のどけき春の日に・・・」目をつぶれば、在りし日の祖母が和歌を読む声が聞こえてきそうである。
 現在不惑の年を過ぎても、簡単な計算は電卓を叩くより暗算のほうが速いのは、ソロバンの練習のおかげであるだろうし、高校時代東京の大学を薦められながらも、京都の大学を選んだのは、万葉の歌人達への想いがあったからかもしれない。初めて京都の地で鴨川のほとりに立ったとき、数百年の時を超えて、当時の歌人達と何かを共有したと感じたのは私の錯覚なのだろうか?その大学で英文学を学び、卒業後異国の地へ憧れ、アメリカの大学院へ留学したのもまた、幼い頃の「英語塾」の影響があったからかもしれない。
 子供時代を想うとき思い出すのは常に故郷での日々であるし、家族・友人のことである。今の私を支えている幼い頃の体験は、思えばやはり両親に守られていたからに違いない。教職に就き早25年。高校生に接する時、彼らもまたそれぞれご両親の愛を受け育っているのであろうと、そしてその愛はやはり直接には返せないほど大きなものであろうと思う今日この頃である。そのご両親の愛情には足元にも及ばないものの、それでも少しでも彼らの成長に関われたらと願わずにはいられない。

 「自分らしさ」の追求  時岡 英雄
 2010年はワールドカップイヤーです。世界中でのべ250億を超える人が観戦するであろう世界最大のスポーツイベントです。日本代表が予選リーグを突破し、ベスト16に進出したことは日本で明るい話題となりました。前評判が芳しくなかったチームの活躍は劇的であり、スポーツの凄さ・素晴らしさを感じた人も多かったに違いありません。
 多くの要因があるとは思いますが、そのひとつに「日本らしさ」が出たということが上げられます。キーフレーズにもなった「一致団結」「チームがひとつになって戦った」というのは本来の日本人が得意とするところです。ただそういった点だけでワールドレベルのチームに勝っていけるわけはなく、その背景には個人個人の技術や戦術眼のレベルアップがあったことも確かです。(1993年のJリーグ発足以来、日本のサッカーレベルの向上は顕著である。)
 「日本らしさ」というのは、「自分らしさ」の追求でしょう。自分の特徴(長所・短所)を知り、チーム(組織)の中でその役割を全うする。それぞれが良さを出すだけでなく、周りをよく見て感じて(相手との力関係を含め)、全体が機能するように関わっていく。トゥーリオ選手は「下手を自覚すること。下手なら下手なりのやり方がある」と言いました。そうして、各人がチームの勝利のために献身的にプレーし、勝つことで更にチームワークが上がっていきました。デンマーク戦に勝ってベスト16進出を決めた後、ピッチ内で試合に出たものも、控えのものも皆が一つの輪になって歓喜の踊りをしている様子は観るものを感動させました。まるで、高校の部活動チームのような雰囲気でした。ちなみに、Jリーグ発足後、高校年代の優秀な選手はJリーグのユースクラブでプレーするものが増え、高校の部活動の低迷が言われています。しかし今回の代表選手は、23名中19名が高校の部活動チームの出身です。そんなところにも、今回のチームの雰囲気の良さに関わりがあるといえます。部活動という「日本独自の制度」を通しての活躍でもあり、「日本らしさ」の一つといえます。
 「自分らしさ」を追及していくことは、スポーツの世界のみならず、私たちの生き方そのものにも大変重要なことです。自分とは何かを知ろうとする、周りとの関連の中で自分を成長させようとする。今回日本代表で最もブレイクした本田選手は大会終了後、次のように言いました。彼の未知への挑戦心・更なる向上心を表す素晴らしいコメントでした。
「応援してくれた人も、批判してくれた人も、自分にとってはどちらも大切な人でした。ありがとうございました。」と。

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