残念ながら恋愛や結婚の話ではない。 囲碁に「見合い」ということばがある。囲碁は基本的に陣取りのゲームである。「布石」とよばれる序盤戦においては、自分の陣地が大きくなるように石を配置していく。その際、ほぼ同じ価値を持った地点同士を「こことここは見合いになっている」というように使う。黒と白が交互に石を置いていくのだから、自分だけが有利になることはないはずだし、一方的に不利に陥るはずもない。ところが、弱いうちはどこが見合いの場所であるかの認識が十分出来ないので、相対的に価値の低い着手や不急の着手を繰り返し、気がついたときには劣勢になっているということがよくある。自分の石が連絡できているか、活きているかどうかといったことは部分の問題なので、少し打てるようになってくると、ミスをミスとしてすぐ認識できる。石が接触しない段階で、どの場所の価値が高いかという判断が的確にできるかどうかが初級者と上級者の違いということだろう。
「やきもちを焼く」ということばもよく使われる。一手ずつ「見合い」の場所を交代に打つのだから自分の陣地も相応にはできているはずなのに、相手の陣地の方が大きく見えてしまい、無理な侵入をはかってしまうのである。相手の石が多い勢力範囲に入っていくのだがら、包囲され攻撃されて苦しくなっていく。さらに追撃されて、せっかくの自分の陣地に侵入されてしまう。なんとか脱出できても、不安定な石がいくつもできて全局的に不利な状況をつくってしまう。これを「薄くなる」と表現し、逆に自分の石が安定し攻勢をとれる状態になることを「厚い」とか「厚みがある」という。どうも、自分は「やきもちを焼く」度合いが強いらしい。目先の実利に目がくらんでしまうのである。やきもちを焼いて侵入した時点では、相手の陣地を減らして成果を上げたようでも、薄みがあるとこちらで石を取られ、あちらで侵入を許しということで、終わってみれば大差で負けているということを繰り返している。「厚み」という不確実な先行投資をするのが苦手である。初級者用の本には、「やきもちを焼いてはいけません。与えるべきところでは、相手にも与えなければいけません」と書いてある。「そのとおりだなあ」と思いながら読むのだが、なかなか実行できないでいる。
やきもちを焼くということは、結局自信がないからである。自分の判断に自信がもてないので相手が気になってしまう。成算が持てないのに無理をしてしまい、最後は破綻してしまう。相手にも与えながら自分の必要なものは確保していく、部分にとらわれず全体のバランスをよく見て何が価値が高いかを判断する、ということが何事につけ重要であり熟練を要するということなのだろう。
しかし、劣勢だと判断できたら「ここは見合いだ」とは言っていられない。薄くなることは承知で無理をしなければいけない。多少の欠陥があっても最強の手順で反撃する。こういう打ち方を「がんばって打つ」と表現する。結果的に報われないことが多くても、座して負けを待つよりましである。冷静に状況を判断して必要なことをやっていくが、場合によっては無理をしてでも可能性にかけていく。残り時間は少なくなってしまったが、なんとか人生にも生かしていきたいものだと思っている。(もう一目でよいから囲碁も強くなりたいものです・・) |
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