上の娘はこの春から高校生になる。やっと義務教育期間が終わると思うと、ホッとするやら寂しいやら。
今振り返ってみると、年を追うごとに娘にかまける時間は減り、制服のアイロンがけもボタン付けもついぞしてやった記憶がない。ふと思い出したように罪悪感にかられて「ごめんね」と言ってみるが、娘は言う。「別に。自分でできるし…」これは母を見切った言葉かもしれない。が、ポジティブな私は娘の成長と捉えて拍手を送る。
彼女は成長とともに、私の知らない自分の社会を広げ、その中で大きくなっていった。私の目の届かないところで、きっといろんな思いに揺さぶられたことだろう。暗いオーラを出している日に「何かあった?」と尋ねても「別に…」と可愛げのない返事しかなくムッとした覚えもある。けれど、時に、こちらが尋ねなくてもぽそっと自分の思いを語ることがある。彼女自身は気づいてないかもしれないが、たぶん、そういう時には、自分で引き受けて、自分の中でなんとかしようとしてきた踏ん張りがきかなくなっている時なのだろうと私は感じる。だから、「別に…」と言っている間は頑張ろうとしているのだなと思うことにしている。
ばんそうこうは怪我をしてからでないと出番がない。しかも薬ではない。あくまでも自分の治癒力によって怪我は治る。ばんそうこうは、まだその怪我がジクジクと痛む時に、更なるダメージを受けないように保護をする。あなたが痛みに耐えていることを私は知ってるよというサインのようなものかもしれない。もしかすると親というのはそういう存在なのかもしれないと思う。子どもが転んで怪我をしないように、杖となり、時には目の前の石を取り除いてやったりすることもできる。しかし、子どもは転んでもグッと泣くのをこらえる力を持っている。転んだ時にしか見えない風景もある。一度転んだことで、次に転んだ時は上手に転んで自信をつけることだってできる。子どものそういうプライドや可能性を信じてやれるのも親だ。
優しさには2種類あるという。「予防的優しさ」と「治療的優しさ」。失敗しないようにしてやる「予防的優しさ」の方が一見優しそうだが、実はそちらの方が「失敗はしてはいけない」という思いと背中合わせであるがゆえに、厳しいものだともいえるのだそうだ。
ますます娘は私の知らない彼女なりの世界を広げていく。まだまだ何度でも転ぶだろう。彼女が必要とする時に差し出せるばんそうこうをいつも持って、私は私で、次のステージに立つ自分のあり方を考えようか……。 |
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