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『相談課便り』第38号 コンテンツ
「グッドルーザーからの一歩」 時岡 英雄
「数字の話」 大西 秀規
「許すということ」 高岡 麻衣
「支え」、「支え合う」ことについて 中野 正勝
「真的?」 荒江 昌子
<平成26年7月発行>
 <表面>
 <裏面>

 「グッドルーザーからの一歩」   時岡 英雄
 今年は4年に1度のワールドカップイヤー。世界のサッカーの本場であり、サッカー大国とも言われるブラジルでの開催は、世界中のサッカーファンを魅了している。残念ながら日本は一次リーグ敗退という結果に終わったが、我が国のみを応援するというスタンスではなく、最高レベルの世界のサッカーシーンを見続けられる喜びのほうが大きい。1試合1試合、様々なドラマが生まれる様に感動の連続である。勝つことを目指し、フェアに戦い、全力を尽くす選手たちのプレイが織り成すゲーム展開とその完結は一つの芸術である。そのエンディングは、「勝者の歓喜」と「敗者の落胆」を鮮明に色分けることとなる。「勝者」にはスポットライトが浴びせられる。「敗者」には・・・。
 スポーツマンの真価が問われるのは「敗者」の振る舞い。「グッドルーザー(good loser)」であれるかどうか。スポーツに求められるのは、飽くなき「勝利」への意欲とそのためのパフォーマンス。だからこそ、「負けること」はとても辛く、悔しい事実である。その時、素直に負けを認め、相手の勝利を称えることが出来る者を真のスポーツマンと呼ぶ。「勝者」より圧倒的に多くの「敗者」が生まれるスポーツの世界。スポーツの意義は「勝つ」ことだけでなく、「負け」を受け止めることにある。そして、そこからまた「一歩」踏み出せるかどうか、そこに大きなものがある。          

 「数字の話」    大西 秀規
 数学(すうがく)ではなく、数字(すうじ)の話です。日常生活の中で数字を意識することは何かとあります。起きる時間、家族の中でトイレに行く順番、今日は何月何日、など生活に関わるもの。1から9までの数字の中で好きな数字は何、など自由でよいもの。通学途中の信号の待ち時間、今日の英語のあたる順番、実力の数学の得点、など切実なもの。数字は便利なものですが、気にしすぎたりとらわれることも多くあります。
 「万が一○○したら」と言う表現を時々使います。1万分の1の確率とはどんなものでしょうか。1個のさいころを何回か投げるとき、1の目が連続5回出る確率は7776分の1、連続6回では46656分の1となります。また、コイン14枚をいっぺんに投げてすべて表が出る確率は16384分の1、9人でじゃんけんをして全員グーを出す確率は19683分の1です。ぜひチャレンジしてみてください。
 ラッキーセブンの由来。19世紀アメリカ、野球のリーグ優勝を決める大事な試合で、7回に打たれたフライが風に乗ってホームランになったことから来ているそうです。もしも8回に打たれていたら、ラッキーエイトになっていたかもしれません。
 「七転び八起き」ということわざがあります。最初の状態はどういう状態でしょうか。最初に起きている状態だと、7回転ぶと7回しか起き上がれません。8回起き上がるためには、最初は起きていない状態となります。どんな人も最初は起き上がるところから始めなければならないということでしょうか。また、転んでも何度でも起き上がっていこう、失敗しても次に起き上がればいいんだというメッセージにも思えます。8-7=1を意識できれば、転ぶことも少しは怖くなくなるでしょうか?
 我々の身の回りを10の0乗m(1m)の世界だとすると、学校など比較的大きな建造物は10の1乗m(10m)の世界、東京タワーやスカイツリーなどは10の2乗m(100m)、富士山は10の3乗m(1000m)の世界です。さらに大きくしていくと、日本は10の6乗m、地球は10の7乗m、太陽は10の9乗m、太陽系が属する銀河は10の20乗mの世界になるそうです。10をかけていくとどんどん世界が広がっていきます。逆に10で割っていくと、ナノテクノロジーの先端技術は10の-9乗m、最小のものとされている素粒子は10の-17乗mの世界になるそうです。10で割っていくと、どんどん細かいものが身近に見えてきます。将来、我々はどれだけ大きな世界や細かな世界を知ることになるのでしょうか。
 みなさんは、将来どんな世界に出て行くのでしょうか。また、どんな中身を持った人に成長していくのでしょうか。
(参考)「数の不思議」(夢文庫)、「10X の世界」(彩図社)

 「許すということ」    高岡 麻衣 
 保健室で聞く会話の一つ。「○○が××だから腹が立つ、許せない」「○○のことは嫌だ」「○○が××してくれなかったから」。嫌な気持ちを吐き出すこと自体は悪いことではない。しかし、人の過ちや欠点をいつまでも許せないのは、相手にとっても、そして何より本人にとっても良くないことではないかと思うときがある。
私自身、許すことが苦手だった。昔から、なかなか素直に許したりごめんなさいが言える子どもではなかったし、大人になってからも夫婦喧嘩をして先に謝るのは9割9分夫のほうだった。「許せない」ことにとらわれて悶々と過ごす時間、悩む時間は苦しくて辛い。怒りや憎しみの感情に支配されていると、それだけ負のエネルギーを使う。どんどんネガティブな考えに陥り、自分を見失ってしまうこともある。そんなとき友人に言われた言葉「そもそも、相手に完全を求めて自分の思うように相手を変えようとするから許せない。自分だって完全ではないし、完全な人などいない。そんなふうに怒って時間を過ごすことほどもったいないことはない。本当は、“許せない”んじゃなくて、“許さない”を自分が選んでいるのかも・・・」にハッとさせられた。
 人を許すということは、相手を無罪放免にするということではなく、自分のために自分自身を解放し、幸せになれる道をゆくこと。怒る時間も笑う時間も同じ時間なら、少しでも笑って過ごしたいものだ。許すということは容易いことではないかもしれない。「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。」というマハトマガンジーの言葉があるが、人を許せないのは自分の心の弱さのあらわれでもある。また、人を許すためには相手のこころをわかってあげようとする優しさが必要だ。(そう考えると、自分だけが悪いのではないと思っていたとしても、先に謝り許すことのできる夫は実は強いんだな~と感心する(^^;))しかし、「許すこと」を意識してみるだけで、違ったものの見方ができるようになり生きやすくなるのかも、と思う。私も上手に人を許せるようになって幸せな時間を自分自身で作っていきたいと思う(*^^*)。


 「支え」、「支え合う」ことについて    中野 正勝
  相談課に所属していたのは確か4年程前のことだったかと思います。一度だけこの「相談課だより」に寄稿したことがあります。リバタリアン(自由主義者)とコミュニタリアン(共同体主義者)について、アメリカ哲学界にある論争について書きました。当時、ハーバード大学政治哲学教授のマイケル・サンデル「白熱教室」が流行っていたのです。私もご多分に漏れず、当時の「現代社会」の授業で論評を取り上げたり、サンデルの本を読んだり、TV放送を観たり、コミュニタリアンの論客マッキンタイアの『美徳なき時代』(みすず書房)を買って読んだりしていました。倫理や心理について考えるには、とてもよい題材であったと今でも思っています。昨年、東京外国語大学で今度は「世界史」の教員向けセミナーに参加したとき、講義テーマの一つに「アメリカ建国時のピューリタニズム(清教徒主義)と現代政治環境の特質について」という講義があり、その担当教授とも講義後話す機会がありました。そこでも、ずっと考えていたこの観点が、アメリカという国の理解にとって、一つの歴史的キーポイントであることを改めて感じました。
 既に寄稿後幾歳月、今回再び依頼されたとき、う~ん、どうしようかな。正直困りました。当時の1年担当とは違い、3年担当でもあるし、何がよいのかよく分からない。他にやるべきことも山積しているし・・・。
 結局、考えたあげく標題にあるような「支え合う」ことにしました。前置きが長かったですが、今回は日頃感じていることやリーダーシップ論、先ほどのNHK「白熱教室」の続編であるコロンビア大学大学院ビジネススクール教授シーナ・アイエンガーの「選択」についてなどから、思いついたことを書いてみます。
 本題です。本校では伝統として「ピア・サポート」活動というのがあり、現3年生でも1年時から多くのピア・サポーターが活動しています。よい支援活動、受容・理解活動をしていると思っています。
 いったいいつからでしょうか?日本社会で「サポーター」という言葉がJリーグをはじめとして、各分野にわたり使われ始めたのは・・・。応援団でも支援者でもよいのですが、東日本大震災でも、ハイチ地震でも、フィリピンの台風被害でも「支援」はとても大切な活動として認知されています。ただ「支援」というのは、博愛精神や利他的な行動以外には、「共同体」や「コミュニティー」「チーム」を前提にしているものが、より強いものという気がしています。いわゆる「ピア・サポート」です。1年時の「現代社会」の授業で、東日本大震災に関連して、福島大学で出題された寺田寅彦の書いた小論文題材を配布したことがあります。さらに、東京外大で当時講演も行なっていたアメリカ人女性ジャーナリスト、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』の抜粋資料プリントも配りました。誤解されては困るのですが、災害は実は共同体を強めるユートピアにもなっていた、という報告でした。ニューオーリンズを襲ったハリケーンの時、ミシシッピ川下流のニューオーリンズ市民は水害・洪水と闘いながら、日頃話したこともない隣人と話をし、助け合い、援助しあい、励まし合い、強い絆と共同体意識を育んだ、とその本にはありました。外国では、日本の震災時のねばり強い助け合いや支援・絆を賞賛しています。絆は災害を通じ、あるいは災害によって強調されるようになったのでしょうか。アメリカの震災支援は「TOMODACHI」作戦でした。
 もう分かりましたね。助け合い、絆の前提の一つは、共同体の人間関係がそもそも重要なのです。日常のクラス活動や部活動、学年団や学校、地方公共団体、日本、世界・・・・。危機、問題、課題時に、特にそれは強まることがあるようです。うまくもってゆけば。3年、受験、朝日祭、進学・・・・これらもひとつの課題・危機です。戦後、従軍された軍人さんたちが何年も旧交を暖めたり、一緒に頑張った方々が集まりお互いを讃え合い、同窓会やグループの会をする背景にもこうした要素があります。
 最大のサポーターは友人・親友・仲間であり、家庭・親であり、クラスであり、先生であり、地域の人たちであり・・・それらは、おそらく生物的にも人間の、実はとても得意な人間らしい分野であり、残念ながら逆にとても不得意でもある部分にも思えます。何故か。不得意にする要因に、自由や合理的選択というのもあるように思われるからです。溝掃除への不参加や生徒の大掃除などの時に現れていませんか?さらにそこには、リーダーシップの問題が横たわってきます。(HR委員、町内会長さんがんばれ!)
 では、サポートをうまくやる一つの観点としてのリーダーシップですが、上からの命令系統?下からの支援?おそらくタイミング・時期、事態の深刻さ、集団・相手によって異なりますが、相手が通常時の一般的な朝日高生であれば、ズバリ陰からの支援で大丈夫だと勝手に思っています。倒れそうなときのサポート、倒れている子への支援で十分でしょう。家庭も経済的な支援や、陰でのサポートが自立支援に繋がっていれば、もうそれだけで十分だと思っています。別の人格である生徒や、自分とは別の人間でしかも優秀な人物を、支配することも所有することもコントロールすることもうまくできません。当たり前の話ですが。(絆を深めることならできます。)親や保護者は、愛情をもって見守るだけでも支援することができるのではないでしょうか。
 こうした一方で、先にあげたシーナ・アイジンガー教授は、人間の選択について、合理的な選択と非合理的な選択の追跡調査の研究を示しています。考えに考えた合理的な結婚相手の選択と、非合理な親が決めた結婚との相違や幸福度・離婚率の違いなどです。単純化はできない所がありますが、非合理な選択の幸福率は実は高く、離婚率は低かったりします。合理的な選択については、実は市場経済での人間行動をはじめとした研究(ー貧富の格差の問題などー)が、インドのノーベル経済学賞受賞者アマルティア・センによって『合理的な愚か者』の問題として指摘されています。センは、合理的選択理論についての数学的解明でも有名で、『集合的選択と社会的厚生』という著作もあります。各個人の合理的だと思われる行動や選択が、かえって共同体を壊し、自由な選択という中で実は多数の不自由な、潜在的能力や可能性を抹殺する結果となる人たちを生み出していることが指摘されています。個人の自由主義が、全体や個人をだめにしてしまっている側面があるというのです。
 長くなりましたが、ここまでコミュニティやサポート、さらに選択の自由ということについて簡単にやや単純化して提示しました。我が娘や息子について考えてみましても、やはり親と違う人間であり、何が正しい自由な選択なのかもよく分からないまま、いい意味でのサポートしかできないものと諦めています。結論はそれぞれの人生で、たくましく元気に成長し、幸せになってくれればそれでよいのです。それ以上に何かあるのでしょうか。 そのためにはまず、保護者の方々や教職員が皆元気で充実していることがとても大切なことだと思っています。
 

 「真的?」    荒江 昌子
 無謀ながらやろうと思っている事がある。語学だ。もともと努力と語学が嫌いで、大学でも外国語の必要のない国文学専攻を選んだし、苦手な第二外国語の単位取得には四年間(普通は二年)もかけてしまったくらいだ。それがなぜ今か、というわけは、二つほどある。まずその①:昨年、相担任だった先生が、メモをハングルで書いておられた。朝鮮語を勉強されていたのだ。また、海外に生徒引率で行かれる語学以外の先生が、仕事の合間に英会話教室に通っておられる話も聞いた。なるほど。 その②:生徒の進路希望調査を見ていると、資格系の学部の志望が多いのが昨今の傾向だ。しかし、本校では東大をはじめとする難関校の志望者も多い。単に資格や就職のことだけを考えて、ではなく、学ぶために最高の環境をめざす。そしてチャレンジする。彼らは最短距離で成果を得ようとしたり、少しでも楽な方法を探そうとしたりはしない。成功も失敗もあるが、その過程で成長して行く姿を見ていると、そのひたむきさに心を打たれる。人間は、変われるんだ・・・ろうな。 結論:①若くなくても語学はできる。②人はチャレンジすることで成長する。というわけで、このたびボチボチと中国語を始めようと思っております。みなさんも自分を信じ、今の自分を乗り越えて、高みを目指して下さいね。

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