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『相談課便り』第40号 コンテンツ
「色多数派、少数派」 永田 宏子
「慣性力」 高田 和俊
「4年後」 三島 翔太
「研究とその成果 小野 公生
「私の好きな風景」 小山 大輔
「当たり前の日々に感謝」 犬飼 加菜子
<平成27年3月発行>
 <表面>
 <裏面>

 「色多数派、少数派」        永田 宏子
 みなさんは、下記のエスニックジョーク(民族性や国民性を端的にあらわすような話によって笑いを誘うジョークのこと)をご存じだろうか?

 いろいろな国の人々が乗船した豪華客船が沈没しそうになる。躊躇する乗客にどのように声をかければ、海に飛び込んでくれるだろうか?
ロシア人に対して「むこうにウォッカが流れていますよ」
イタリア人に対して「海で美女が泳いでいます」
フランス人に対して「けっして海には飛び込まないでください」
イギリス人に対して「こういう時にこそ紳士は海に飛び込むものです」
ドイツ人に対して「規則ですから飛び込んでください」
アメリカ人に対して「今飛び込めばあなたはヒーローになれるでしょう」
中国人に対して「美味しい食材が泳いでいますよ」
日本人に対して「みなさん飛び込んでいますよ」

 もちろん、これに表現されている国民性はステレオタイプなものであり、国民全員がこのとおりであるというわけではない。ただ、「なるほどね」とニンマリしてしまうところがあるのも頷ける。注目してもらいたいのは、日本人である。みんながしていることと同じことをしようとする、同じでないと不安だと感じる日本人の心理をうまくあらわしている、と日本人である私も思う。聖子ちゃんカットが流行れば(古いなあ)猫も杓子も聖子ちゃんカット、ツータックパンツが流行れば(これも古いわ)これまたそればっかり。大人の世界だけではない。高校生だって、腰パンやルーズソックス、ミニスカートも「みなさん飛び込んでいますよ」とどれほどの違いがあろうか。
 日本はよく「同調圧力が強い国」だといわれる。同調圧力とは、簡単にいえば、“みんなと同じ”であることを求め、「空気を読め」と迫り「出る杭は打たれる」と明に暗に圧力をかけることである。みんなと同じ多数派の側にいることは、まるでそれが正義であるかのごとき仲間意識を生み、居心地のよい安心感がある。だが、あなたがもし少数派の側に立ったら?
 人はいつも多数派の側にいるわけではない。中には自ら望んで少数派になることもある。実は私自身がそうなのだ。私は岡山県の公立高校に世界史で採用された教員だが、岡山県内には世界史だけでなく日本史、地理をあわせても高校の地理歴史科で女性の教員はたぶん10人いないであろう。圧倒的な男社会である。採用試験を受けているときに、同じように高校世界史を受けていた男性から「岡山県は女性を採用しないよ」などという言葉を投げつけられたものだ。まあこれは、私にとって発憤材料になっただけだが。私にとって現在の状況は承知の上での少数派である。やりにくさがまったくないわけではないが、他県に行けば女性の地理歴史科教員は大勢いるし、全国を見渡せば男性の家庭科教員だっていることは大きな励ましでもある。
 一方、自分の意志にかかわらず少数派の側に立つこともある。たとえば、性的少数者の人々はどうだろう。性的少数者とは、性的興味・関心が同性に向いている同性愛者や、男女両性に向いている両性愛者、心の性が身体・戸籍上の性別と一致しないために性的違和感を抱えている人(性同一性障害のある人)、あるいは生物学的に男女両性の要素を持って生まれた人(インターセックス)を含む総称である。性的少数者は、国や民族、宗教などの違いかかわらずどんな社会にも人口の数パーセントは存在するといわれており、2012年の電通総研による調査では5.2%であった。これは40人に2人はいる、という確率であり、私たちのクラスの中にいても何の不思議もないということだ。しかし、こうした人々は日常的に差別や蔑視にさらされることが多く、いじめやさまざまな差別を受けやすいといわれている。それを恐れて、自分を隠し息を潜めるようにして生活している人もいる。研究によれば、性的少数者の男性の中には、そうではない男性の約6倍もの自殺未遂経験者がいることがわかっている。
 昨年、アップルのCEOであるティム=クック氏がゲイであることをカミングアウトした。この3月には渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例案を議会に提出する。世界では約20カ国が同性婚を認め、夫婦に準じる権利を認めるパートナーシップ制度を整備している国も25カ国以上に上る。国連の自由権規約委員会は昨夏、日本に対して性的少数者への差別や偏見をなくすよう勧告した。しかし、日本のマスコミに登場する性的少数者の人々はともすれば「笑い」をとるポジションで扱われ、逆に性的少数者への偏見を助長している傾向がある。その影響もあってか、学校や一般社会で生活している性的少数者の人々はからかいの対象になりやすい。そんなことを望んでいるわけでもないのに。
 岡山県は性的少数者が直面している問題を人権課題の一つとし誤解・偏見や差別意識をなくすための教育を推進しようとしているが、なかなか学校でこの問題を正面から取り上げることができずにいる。しかしその躊躇のために、この問題で生きづらさに苦しんでいる少数派の人がすぐそばにいるかもしれないということに、私たちが気づきにくいのかもしれない。
 性的少数者に限らず、私たちの周囲にはさまざまな少数派の人がいる。また私たち自身が時と場所そして立場が変われば少数派たり得る。自分が多数派、少数派どちらの側に立とうが、自分の意志でなすべき行動を判断し、自信をもち、胸を張って生きていきたいものだ。    

 「慣性力」       高田 和俊
 学生のときは楽しいこともたくさんあるが、苦しいこと、つらいことがたくさんあったように思う。勉強や部活、人間関係などうまくいかないことが多くある。しかし、大人になって思い出してみるとなぜ苦しんでいたのかわからないような些細なことだ。
 物理で「慣性力」というものがある。電車やエレベーターが動き始めたときに人が感じる力である。右に動き始めたときは左向きの慣性力を、上に動き始めたときは下向きの慣性力を感じる。乗り物が加速する向きと逆向きにはたらいているのである。
 しかし、慣性力は加速している乗り物に乗っている人しか感じることができないみかけの力だ。別の立場で静止している人にはみえない。わかるのは加速しているということだけである。
 学生のとき苦しいのは加速しているから。加速しているからこそ後ろ向きの慣性力がはたらいているように感じる。保護者や先生、友人など客観
的に見てくれる人は加速していることに気づいてくれている。つらいとき
には信頼できる人に相談しながら、自分が加速していることを知ってもらいたい。加速すればするほど大きな慣性力を感じる。高校生活の中でみなに大きな慣性力を感じてもらいたい。
                               

「4年後」     三島 翔太
 「明後日11日は、東日本大震災から4年となるのを前に各地で追悼式が行われた。岩手県陸前高田市で開かれた追悼式には、遺族など約1000人が参加した。宮城県名取市で行われた追悼行事では、復興へのメッセージが描かれた灯籠に灯がともされた。」
 ある朝、某有名情報番組にてアナウンサーがしゃべっていた言葉だ。
 気がつけば、あれから4歳も年をとったのかと思うと月日がたつのは早いと感じる。しかし、当時の記憶は鮮明に覚えている。
 平成23年3月11日。大学4年生の卒業旅行で東京ディズニーリゾート(以下TDR、運営会社はオリエンタルランド:千葉県浦安市)を訪れていた。まさか今日この場所で大地震を体験するなどと想像していなかった。
 午後2時46分に発生した震度5強の揺れは、その場に立っていることさえ困難で、水上アトラクションの船さえも大きく揺らした。自分を含めた来園者(同社ではゲストと呼ぶ)の大半は、前代未聞の体験に当然錯乱状態になった。しかし揺れから40秒後には、地震発生を伝える園内アナウンスが流れた。(ちなみにTDRでは、園内アナウンスを一切流さないのが基本であるそうだ。せっかく園内で「夢の王国」を楽しんでいるゲストたちが、その魔法から覚めてしまうからだ。)アナウンス後すぐに、TDRのスタッフ(同社ではキャストと呼ぶ)たちはパニックを起こさず、冷静かつはっきりとした声で、分かりやすい指示を出した。「頭を守ってしゃがんでください!」「みなさま、どうぞその場にお座りになってお待ちください!」。キャストの冷静な指示に、パニックを起こさずに落ち着くことができた。広大な園内すべてでこのような指示が的確に行われていたようだ。
 後日知ったことだが、約1万人存在するキャストの約9割は、高校生や大学生を中心としたアルバイトだ。アルバイトが現場を支えているのが、TDRの実態である。震災時に10代から20代を中心としたアルバイトスタッフたちが、7倍もの人数に対し、落ち着いて対応している姿に、私は改めてTDRという組織のすごさを思い知らされ、各キャストのプロ意識を感じた。
 誰しも将来的には職を持ち、何かしらのプロとして働くことになる。また、仕事以外でプロとして振る舞わなければならない時がくる。その時に、自分自身に誇りを持つことがプロ意識に必要なのではないかと思う。もしも、自分のやっていることに対して何も誇りを持つことができないときは自分のベストを尽くすつもりでやってみるとそれがプロ意識に昇華される瞬間を感じることができるのではないか。TDRのキャストのように高いレベルでプロ意識を維持できる人材が必要とされる人材であり、私もあの時のキャストのプロ意識に近づけるよう日々精進していきたい。
                            



「研究とその成果」     小野 公生
 携帯電話や液晶テレビのバックライト、信号機、電光掲示板、LED照明など、これらはすべて2014年のノーベル物理学賞に選出された「青色発光ダイオード」の発明と実用化によってもたらされた産物だ。これらの成果ばかりがクローズアップされるのは当然なのだが、日本人3名による共同受賞という点にも着目してもらいたい。
 研究には、研究室をはじめとする共同研究者がいたり、異なる視点からのアプローチを試みる研究者がいたりして、同じテーマだとしても複数の人が関わっているというのが一般的だ。例えば、化学の授業で「ハーバー・ボッシュ法」という有名なアンモニアの合成法を習ったはずだ。たまに「ハーバー法」と略されているのだが、合成法を確立したハーバーと工業化に成功したボッシュの二人の功績であって、一人の功績ではない。同様に、青色発光ダイオードを世界で初めてつくり出したのは、当時名古屋大学教授で現在名城大学の赤崎勇教授とその弟子で現在名古屋大学の天野浩教授だ。彼らは、研究者の誰もが諦めかけていた中、当時の主流とは別の方法で試行錯誤を重ね、丈夫で熱伝導性のよい窒化ガリウムを素材にした結晶の青色発光ダイオードを発明した。その成果を受けて、当時企業の研究員で現在カリフォルニア大学の中村修二教授が窒化ガリウムの結晶を作り出す方法を独自に編み出し、商品化できるレベルにまでもっていった。そして、今回のノーベル賞受賞に至ったわけだ。このように、研究の成果が世の中に認められるまでには、その成果の共有とバトンタッチが何十年にも渡って繰り返されているのだ。
 皆さんには、どの分野であっても、あるいはどのプロセスであっても、一人ではないということを忘れないでもらいたい。また、思うような成果をあげられなくても、それは失敗などでは決してない。何十年か先には大きく認められているかもしれない。誰かのためになっているかもしれない。振り返ってみれば、よい思い出になっているかもしれない。考え方次第でどのようにでもなるのだから。 



「私の好きな風景」     小山 大輔
 早いもので朝日高校に赴任してもうすぐ1年が経とうとしている。
 私は気分転換をしたい時に校内をよく散歩していた。どこかで私の姿を見かけて、「こんなところで何をしているのだろう?」と思った人がいるかもしれない。桜並木、六校会館、旧教育センター、食べられるさくらんぼが実る桜の木、何度取り除いても落ち葉が降ってくるテニスコート、黄色い銀杏と柔道場、大講堂の二階席からの眺め、大講堂横のコンクリートに残った犬の足跡・・・などなど、朝日高校の校地には私の好きな風景がつまっている。珍しい木や植物を探すのも楽しい。ちょっとした植物園を散歩している気分にもなる。
 中でも一番好きな風景は、朝7時ごろの校門だ。古京の交差点から校門までの道を東へ進んで正面から校門をくぐると、ちょうど操山の頂上付近、講堂の三角屋根の頂点から、朝日が昇ってくる。大楠がキラキラと輝き、校舎や校庭は白みがかった黄色に染まる。この景色が私の一番のお気に入りだ。まさに、「のぼる日の名を負う 朝日」にぴったりの眺めだなと思う。
 現在の校地を設計した時、ここまで計算して校門の配置を決めたのだろうか。おそらく意図的な配置だと思う。四季の移ろいによって表情を変える校内の風景と、毎日変わらず校門から見える「のぼる朝日」。変化するものと普遍的なもの。幾年月が経っても変わらない朝日高校であって欲しい、という過去からのメッセージかもしれない。




「当たり前の日々に感謝」   犬飼 加菜子
 私は大学時代、バスケ部に所属していた。中学・高校とずっとバスケ部だったということもあり、当たり前のように入部し、日々練習に明け暮れていた。そして、部活動を通していろんな事を学び、また、大切な仲間たちにも出会うことができた。特に、同期のバスケ部は仲が良く、部活動以外でもよく一緒にいて、ご飯を食べに行ったり、旅行に行ったり、当たり前のように楽しい日々は続き、私を含め誰もがこの当たり前がずっと続くと思っていた。そして、その時は突然訪れた。大学4年生の11月25日、私はいつものように大学へ…そして友人の死を知らされた。突然死であった。頭が真っ白になり、ただただ涙が溢れてきて…何時間、何日泣いただろう。泣いても泣いても涙は溢れ、友人との思い出ばかりが頭の中をグルグルと…そして、まだ友人は生きているのではと…。
 命…それは、当たり前だけれどお金では買えない大切なもの。命があるからこそ私たちは喜び、悲しみ、楽しみ、仲間と笑いあうことができる。そして何より、命は亡くしてしまったらもう帰ってはこない。どんなに願ってもどんなに大切な人の命でもそこで終わってしまう。命、それは、一つしか存在しないかけがえのないもの。
 身近な人の死はいろいろなことを教えてくれる。いつ誰が死ぬかわからないから、いつも人に親切であろうとか、思いやりをもって接しようとか、今この一瞬はもう戻ることができない大切な時間であるとか、「生きること」を大切に思うようになる。そして、当たり前のことが当たり前ではなく、私が今ここに生きていて、新しい命を産み育てその大切な家族や友人、仲間たちと生活ができることがとても幸せであることに気付かされる。そうすると、周りのいろんな人に感謝の気持ちが溢れ出す。そして、日頃の些細なことでも感謝の気持ちを持って素直に「ありがとう」と言えたら素晴らしいと思う。だって、今のこの一瞬はもう戻ってこないから。
 生きていれば、辛いこと、悲しいこと、イライラすることやたくさん嫌なことだってある。けれど、生きているからこそ、嬉しいことや楽しいこと、たくさんの良いことやたくさんの人との出会いがあり感動があり、たくさんの幸せを感じることができる。当たり前の日々に感謝し、生きていること、大切な家族、友人、仲間がいることに感謝し、一日一日を大切に亡くなった友人の分まで今を精一杯生きていきたいと思う。

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