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『相談課便り』第44号 コンテンツ
笑顔の力 松北 髙行
4月のヤマアラシたちへ 信宮 優子
「ことば」を贈る 橋本 美未
「聞く」ことと「話す」こと 永田 宏子
<平成28年3月発行>
 <表面>
 <裏面>

 
 笑 顔 の 力         松北 髙行
  「おはよう。」と交わす何気ない挨拶。その明るい声と共に受け取る友人の笑顔に励まされて1日が始まる。「さあ、今日も元気に頑張ろう。」
 『 笑う門には福来る 』とはよく言ったもので、笑顔でいる人を見るのは実に気持ちがいい。誰かが嬉しそうにニコニコしていると、「どしたん、どしたん、何か良いことあったん?」と、あたかも「その幸せを私にも分けてよ。」と言わんばかりに寄って行きたくなるものだ。笑顔は相手に安心感を与える。笑顔で話しかけると相手も心を開きやすくなり、話しやすくなる。
 いつも笑顔でいる人の周りにはたくさんの人が集まり楽しそうにワイワイやっている様に思う。笑顔は伝染するのだ。笑顔は自然と和やかな雰囲気を作ることができ、周りだけでなく自分の気持ちまでリラックスした状態になり、これからやろうとしている事にも集中して出来る力がある。
 仕事柄、年間数多くの演奏会を経験するが、ステージに笑顔で演奏者が登場してくると客席に座っていてもつい嬉しくなる。「この人はこれから演奏する曲が好きで仕方がないんだ。どんなに素晴らしい音楽を聴かせてくれるのだろう。」と期待に胸も膨らむ。逆に不安そうな顔で出てくる(程度の差はあれ、ほとんどがこれだ。)と、こちらも沈んだ気持ちになってしまう。
普段の生活でも同じことが言えて、雰囲気が暗かったり、無表情な人や普段から怖い顔をしている人の周りには人は集まらない。笑顔を保てば人間関係も驚くほど良い方向に変わっていくものだ。
 色々な文献をひも解いてみても笑顔には思いもしなかった効用があるようだ。例えば、笑うと、がん細胞をやっつけるキラー細胞が増える。笑うと、脳内にドーパミン等のホルモンが分泌されストレスが解消し、プラス思考になれる。笑うと、心臓病の予防に効果大。笑うと、各種アレルギーを改善する効果がある。笑うと・・・etc. 
 たった笑うだけでこんなにも良いことづくめなんて、それこそ笑いが止まらない。これはもう笑うしかない。

      

 
 4月のヤマアラシたちへ          信宮 優子
 「ヤマアラシのジレンマ」を知っていますか。
寒い冬の日に、二匹のヤマアラシが身体を寄せ合ってお互いの体温で温まろうとした。しかし、近づきすぎるとお互いの針が相手に刺さってしまい、また離れると寒くなる。二匹は近づいたり離れたりしながら、お互いに傷つかない、また寒くもない、ちょうど良い距離感を見つける。
これは人間関係において葛藤があった際、互いに程よい距離を探って落ち着こうとするプロセスをたとえています。
 私はその昔この話を初めて知った時、別の解決法を思いつきました。
「ヤマアラシたちは、立ち上がって抱き合えばいいのだ。」
この考えをある友人に話したことがありました。彼女が私の解決法に賛同してくれると信じて、意気揚々と語ったはずです。
 彼女は、本当に心配げな面持ちで私を見つめ、こう言ったのです。「それは大変怖いことよ。相手が立ち上がってくれなかったらどうするの。あなたは血だらけになってしまう。」彼女は続けます。「それに急に立ち上がられたら相手がびっくりするのでは?立ち上がることは必ずしもよいことではないかも。」
はっとしました。自分の考えがいかに浅いものであったか思い知らされました。はるか地平線を見ていた目の前に鉄板が空から落ちてきた気分だったと思います。正直落胆しました。
同時に私は二つの感情を抱いたのでした。その一つは、それでも私というヤマアラシは立ち上がることにチャレンジしたいという気持ちでした。
 以来私は新しいジレンマを感じることになります。立ち上がるべきか否か?そしてそのタイミングは?
20年以上が経ちますが、うまくいったり失敗したり。人と人とのつきあいは難しいですね。自分も人も不快に感じない距離感を、互いに不快感を与えることなく学び取ることは、大人にとっても難しいことです。友人との関係を大切にしたいと思っている高校生の皆さんは(その気持ちが強い人はなおさら)、悩みも多いことだと思います。
 春4月、多かれ少なかれ私たちはそれぞれ新しい環境に身を置くことになります。多かれ少なかれヤマアラシたちはそれぞれジレンマを感じて、落ち着かない冬の時期をしばらく過ごすわけです。
寒くも痛くもない場所を探っていくことになるのでしょうが、実は立ち上がる以外にも、暖を取りやすくする方法はあります。針を短くする。針の下の皮膚を厚くする。思い切って、みんなで暖かい場所に移動する。少しの知恵と工夫で選択肢が広がります。ひどく痛い思いをしませんように、くれぐれも血だらけになりませんように。なにより「私も周りも、みんな4月はヤマアラシなのだ。」と思うとちょっとだけ気が軽くなりませんか。
 最後におまけです。「二つの感情」のもう一つをお知らせします。それは、私にこの聡明な友人がいて本当によかった、という喜びでした。
 春4月。皆さんにも良い出会いがありますように。
                               

 
  「ことば」を贈る         橋本 美未 
 「ことば」を贈る。式典などで「このことばを贈ります」と、意識的にことばを贈られることもあれば、何気ない会話の中で「あなたってこうだよ。」と無意識のうちに贈られることばもある。ことばで傷つくこともあるけれど、素晴らしい宝物になることばもある。宝物となったことばは覚えているかぎり失われることはないし、いつも自分とともにある。心の中に刻まれたことばは、贈られた時のままに鮮やかに残っているかもしれないし、年を経てより深く心に響くものに熟成されているかもしれない。
 私は今までにたくさんのことばを贈ってもらった。以前、転勤するにあたって先輩の先生から贈られたことば。柳田国男の「妹の力」という文章を挙げながら、女性である私がこれからも自分らしく、自分にできることをしっかりとやっていけばよいのだと背中を押してくださった。その格調高いことばを贈られたときには、恐縮しつつも感動し、本当にうれしかった。今、そのことばは、私を励ましてくれるものとなっている。その言葉を贈ってくださった先生は、私が悩み、苦しんだとき、自分には価値がないと落ち込んだとき、励ましてくれる言葉となることを見越して、ことばを紡ぎ、私に贈ってくださったのだろう。私を支えてくれる大切な宝物である。
 また、ある時、担当学年の生徒が急逝するということがあった。前日の夜には家族といつも通り談笑し、修学旅行が楽しみだと語っていたそうだ。翌朝、彼が目を覚ますことはなかった。その訃報を聞いた時、一番に私が思ったことは、「彼と最後に交わしたことばは何だったろう」ということだ。最後に会った時、遅刻してきた彼をとがめ、問いただした。調子が悪くて遅れたと聞いて、「それなら仕方ないな。お大事に。」と言ったのが最後だと思い出し、少し気持ちが軽くなった。最後に何を言ったのかというのは、話し手である私の問題で、そこでひどいことを言わなかったというのは私の単なる自己満足に過ぎないかもしれない。けれども、この経験はずっと心に残った。自分の発したことばが、相手にとって、自分にとって、いつ最後のことばとなるかわからない。もちろん、いつも聞く人にとって心地良いことばだけを言えばよいということではない。そうではなくて、不用意にことばを発していないかということだ。厳しいことばでも相手のことを考えて言ったことなら後悔することはない。厳しさの中にある思いはいつか相手にも伝わる。しかし、何も考えずに発したことばによって人が傷つき、それがその人との最後のことばになってしまったらどうか。その言葉が最後になっても後悔しないか。
 一度口に出したら取り消すことはできない。人を傷つけることがあるかもしれない。しかし、人を支え続ける可能性も持っている「ことば」。私は失敗を繰り返しながらも、悔いの残らない「ことば」を贈るよう意識し続けたいと思う。


                              

 
 「聞く」ことと「話す」こと          永田 宏子
 「痛い。」寒さのせいだろうか,廊下で授業開始を待っていると,何だか腰に痛みが走る。重いものを持ったときにやってしまう“魔女のひと突き”(ギックリ腰)のような痛みではなく,腰の中,身体の中心部右に鈍痛がある。軽く腰の運動をしてその時はやりすごしたが,翌朝は起き上がりにくくなり,その次の日には車に乗る際に痛みで右足が上がらなくなってしまった。「これはダメだ,明日はきっと階段が上がれなくなる」と思い,仕事が終わるや否やダッシュで医者へ。そして,鎮痛剤とたっぶりの貼り薬をもらって帰る車中,私はプンプン怒っていた。腰は痛くても腹は立つ。二度と行くもんか,あんな医者!さて,私は何に怒っていたのでしょう?
 腕のいい医者なのだろうと思う。狭めの待合室は混んでおり,これは信頼して通っている患者さんが多いことを示している。そして私の診察はたぶん手順通りに行われたと思う。それに不満があるわけではない。でも,終わってみて私は何だか不快だった。ムカツクってやつだ。そして車で自宅に向かいながら,今の診察を思い返す。あちら(医者)は専門家だから,触診や関節の動き具合,レントゲンなどをみれは何がどうなのか見当は付くのだろう。よくある症例の一つなのだ。しかし,医師から私への問いはほとんどなく,私が状況を説明しようと口を開けばそれを制止し,言えばことごとく否定する。姿勢の悪さをあげつらわれ,こうなったのはあなたのせいと非難される。「はい」「はい」とおとなしく聞いていたが,その不満が車の中で爆発したというわけだ。
 私が腹をたてた原因は,何といっても医者が私の話を聞こうとしなかったことだ。医者としてみれば自分の診察で病名も原因もわかる,あとはそれを説明するだけと思うのかもしれない。しかし,患者の思いは違う。そりゃこの痛みを何とかしてほしいのであるが,それとともに痛い辛い思いを我慢している自分に共感してほしいのだ。「だからちょっとだけ私の話を聞いてよ」と思っている。医者の仕事はそのスキルをもって患者を治すことであって,ケアは仕事ではないと? それは違うでしょう!
 ぶつくさ車中で文句を言いながら信号待ちで止まったとき,はたと「生徒は?」と思う。私たち教師はそれぞれの教科・科目の専門家だ。自分の科目については生徒に負けることはない(総合力ではもちろんかなわないが)。知識量で圧倒的優位に立ち「このあいだやったところなのに覚えていない」「ああ,こんな常識的なことも知らない」としばしば呆れ,しばしば腹を立てる。面談でも「この点数はどういうこと?」「提出物が出ないってことは自己管理できていない証拠だ」と生徒に詰め寄る。そして,生徒はしばしば「すいません」と謝る。が,こんな時,私たちは生徒の言い分をしっかり聞いているだろうか? あの医者と同様,生徒を否定し自分の話したいことを一方的にまくし立てているということはないだろうか? 生徒もあのときの私と同様,自分の気持ちに寄り添ってほしいと思っているのではないか? 教師との面談のあと,生徒も「コンチクショウ!」と腹を立てているかもしれない……
 もちろん,生徒の話を「聞くだけ」というわけにはいかない。私のところに来る生徒も話の後の“処方箋”を求めているのだから。でもまずは,生徒の話や思いを「聞く」ことをしないと,結局そのあとの私の「話し」は生徒の中に入っていかないのではないか。医者と患者,教師と生徒,親と子……立場に上下の関係があるとき,上の立場に立つ者は,つい,こちらの正論や考えをつらつらと言いたくなる。何せ相手は,知識のない素人,経験不足で思慮の浅い子どもだ。しかし本当に相手のことを考えるのであれば,上の立場に立つ者に必要なのは,口をついて出ようとする言葉をまずは飲み込み,相手のとりとめのない話(言い訳)を聞く「忍耐力」なのかもしれない。
                               



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