3月のある日,息子の通う中学校の先生から職場に電話があった。体調を崩して,良くなりそうにないので,迎えにきて欲しいとのことだった。心の中で,『おかしいなぁ。朝,家を追い出した時には,調子が悪い様子など微塵も無かったのに。』すぐさま,『ひょっとして仮病かもしれない』と思う。春休み中の暇な大学生の娘に迎えに行かせ,病院に行くために仕事を切り上げた。家に帰ると,胸を押さえてうなだれた息子が元気なくソファーに座っていた。「だいたい,大袈裟なんよ。息をする時に胸が痛くなるなんて,私だってあったわ。痛くない程度に息してたらなんとかなるわ」
と娘。大学生になっても部活をやっている体育会系の女子はなかなか厳しい。いや,そんな風に母親の私が彼女にそう言ってきたのかもしれない。子どもは育てたようにしか育たない。たくましく育った娘の方はさておき,まだ手のかかる中学生の方は,病院で診察してもらえば落ち着くだろうと,心電図やレントゲンをとってもらう。予想はしていたが,何も悪いものは見つからず,病院の先生にも思春期にときどきある症状だと言われた。少し落ち着いて考えると,息子は今までにも急に体調が悪くなることがあった。そしてそれは決まってこちらが忙しくて息子をかまっていない時だった。友達のいない息子は,自分の心にあるものを家庭でうまく処理できないと「寂しい病」になってしまい,原因のはっきりしない体調不良になってしまう。そう言えば,このところ彼の話をいい加減にしか聞いていなかったように思う。なんだか一生懸命その日の出来事を話してくれるのだが,話が要領を得ないので,「ふうん,それで?結局どうなったん?」という感じの相槌になる。まだこれに抑揚があればいいのだが,こちらも面倒になるとその抑揚も平坦になって機械的な聞き方になってしまう。『原因は私かぁ』としばし反省。
振り返ってみると,子育てを始めてから仕事との両立を心のどこかで悩みながら続けてきた。家では『これでは母親失格だ』と思い,職場では『これでは役に立っていない』と思う。自分の理想とする『母親像』と『仕事をする女性像』との間で振り子のように揺れながらそれでも前に進んできたのだろう。保育園まで自転車で送り迎えをしていた頃は,子どもを自転車に乗せたまま転倒したり(これは小児科の先生にもしかられた),お昼寝用の布団だけ乗せて,肝心の子どもを自転車に乗せ忘れて出発したり(これは今でも近所のおばちゃんに言われる),家で子どもを抱えたまま階段を踏み外し転倒したり(これは階段の破壊につながった)とちょっとしたエッセイが書けるほどのネタがある。朝日高校に勤めるようになって長いが,優秀な生徒達を毎日見ていると,自分の子どもはどうして同じようにできないのかと思ってしまう。仕事の方も,家でやろうと持ち帰るが,家事が終わって知らないうちに寝入っていまい,朝方目が覚めて青ざめることもよくある。生徒を自分の子を叱るように注意すると,「教育者の指導ではない」とお叱りを受けたこともある。なんとも情けない限りだが,母親業か仕事かどちらかをとれば悩みが解決するわけでもないのだろう。救いがあるとすれば,いつも一生懸命に母親業と仕事をやってきたことだろうか。生徒にも,もちろん自分の子供にも愛情は注いできたつもりだ。ただ『サボテンまで枯らしてしまう女』の異名を持つ私は,水に限らず毎日適量を注ぐことがきっと不得意なのだ。悩むことが無くなると,人間は成長しなくなるかもしれないとポジティブに考えるべきかもしれない。生徒達も悩みながらきっと成長するのだろう。息子の『寂しい病』も成長の過程かもしれない。ただ心が苦しくなった時には,誰かに『愛されている自信』を持って欲しいと思っている。
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