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『相談課便り』第50号 コンテンツ
「トレッキング」 赤澤  明
「志あるところ道はひらく」 荒江 昌子
「朝日祭で思い出すこと」 橋本 美未
「母」 永田 宏子
「歌の贈り物」 信宮 優子
   
<平成29年7月発行>
 <表面>
 <裏面>

 「トレッキング」      赤澤 明
 「健全な貧しさと純真な心を持ち、世の中にあふれている無償の喜びに気がつけば、発見に満ちた豊かな人生が送れるだろう」これは、ある大学入試(英文要約)に出題された内容の一部です。カメラを持って野山に出かけると、普段なら気にも留めないような草花や木、さえずる野鳥に思わず目が行き、語りかけたくなるような見事な自然の美しさと力強さに心を打たれ、何とも言えぬ幸せな気分になります。そんな時は、自分に意識が向くことなど全くなく、ただ只自然の中を歩きながら、心惹かれるままにシャッターを切り、自然にいだかれている心地よさと感動に酔いしれているのです。長く歩くと疲れますが、心はいつの間にかすっかり元気になっています。
         

 「志あるところ道はひらく」      荒江 昌子
 今話題のバッタ博士、*1前野ウルド浩太郎の本を読み、「志」の大切さを改めて感じている。Dr.前野はサバクトビバッタの研究者だ。秋田の県立高校から一浪して弘前大学に進学、恩師の退官に伴い他大学の院試を受けるも失敗する。ところが、①運良く現師匠(弘大出身)と出会い、その研究室に在籍が叶う。大学院修了後、アフリカで研究活動をした後、無職となる寸前で、②京大の*2白眉プロジェクトに採用される。①でも②でも「バッタを研究したい」「アフリカの食糧危機を救うため害虫であるバッタの生態を明らかにしたい」という彼の熱意が道を開いた。白眉の*3面接で「モーリタニアは何年目か」と問われ、「3年目」だと答えたところ、総長に「過酷な環境で生活し、研究するのはほんとうに困難なことだと思います。わたしはひとりの人間として、あなたに感謝します」と言われたというのはそれを表すエピソードだろう。志を持ち、それを語って欲しい。
注*1『バッタを倒しにアフリカへ』光文社新書 *2若手研究者(博士)を年俸制特定教員として最長5年間採用し研究費を補助するという京大の研究者支援育成事業。*3ちなみに、この時、前野は眉毛を白く染めて会場入りするが、面接では軽くスルーされたという。

 「朝日祭で思い出すこと」      橋本 美未 
  数十年前の自分自身の高校時代を振り返るとやはり朝日祭(文化祭・運動会)のことが一番に思い出される。当時の朝日祭は現在のものに比べると少し趣が違った。九月に入って最初の週の土曜日が文化祭、次の週の土曜日が運動会だった。文化祭ではクラス毎の出し物はなく、部活動と生徒会の催し物だけだった。そんな中、有志バンドのコンサートがすごい盛り上がりを見せていた。校舎内にはあまり人気がなく、不思議に思いながら何気なく図書館の扉を開くと中にはたくさんの人がいてみんな勉強していたのを見て驚いた記憶がある。それぞれの生徒が自分のやりたいこと、興味あることを追求する、まさに自主自律の雰囲気が漂っていた。
 一方運動会では打って変わって、クラスごとに団結し、仮装行列にむけて集団で頑張った。踊りの振り付けは現在と同様にダンス部の女子が考えてくれた。クラス全体でのダンス練習で真面目にやらない男子もいて困っていると、見かねた一人の男子が、「ダンス部の人がせっかく振り付けを一生懸命考えてくれたんじゃから、まじめにやろうや」と声を掛けてくれて練習再開。こんな声掛けができる人がいるのだと感心したものだ。相生橋の下に集合して日暮れまでダンスの練習。(現在は校内で練習場所を確保できるため校外での練習は禁止されています。)クラスメイトの意外な一面を知ったり、集団でひとつのものを作り上げる苦労や喜びを味わった。当時は、とにかく工夫して持っている物を利用したり、自分たちで衣装を縫ったり、大道具を作ったりと、ある物を活用してそれらしくする面白さも体験した。現在も作っているクラスゼッケンに俳句好きの担任の先生にちなんで俳句を書いたり、本物のススキの穂を付けたりした。どんどん発想を広げ、それを面白がっていた。上手に綺麗にまとめるというよりも今までにないオリジナリティのあるものを生み出すことを競い合っていたように思う。
 お金で買えるものが増えた現代、文化祭、体育祭グッズもネットで注文すればすぐに手に入る。そうではあるけれど、ある物を活用し、友達とああだこうだと考え意見を出し合って工夫する楽しさや、オリジナリティを感じられるものを作り上げる面白さを感じて欲しい。また、人との関わりの中でぶつかることもあると思う。その時に、相手や周囲の人を思いやるひと言が言えるようになって欲しい。
 数十年後に思い出すのは、その時の結果が何位だったかということよりも練習の時の友達のひと言だったり、自分たちのアイデアが形になった時の喜びだったりするのだ。
 

 「母」               永田 宏子
 去る6月22日に乳癌の闘病を続けていたフリーアナウンサーの小林麻央さんが亡くなった。まだ34歳という若さであった。多くのメディアがこのことを取り上げていたので,生徒の皆さんもよく知っていることだろう。中には,彼女が発信し続けていたブログを読んだ人もいたかもしれない。私が小林麻央さんの闘病を注目していたのは,私の母も乳癌で亡くなっているからだ。亡くなって今年で19年になる。早いものだが,今でも亡くなったあの暑い夏のことをありありと思い出すことがある。
 実のところ,私は母のことを語るのは苦手だ。私は母とは長い間折り合いが悪かったのである。たぶん母はいわゆる「悪気はなかった」のであろうし,「すべては娘のため」という理由をつけるであろうが,私にとっては過干渉で,自分勝手な存在であった。小学生のころは母に威圧的にすべてを押さえつけられて,イヤだと感じつつもそのおかしさには気づかなかった。しかし,思春期を迎えて自我が芽生え,母の言動を客観的に見ることができるようになると,母の私に対する接し方は「娘のため」ではなく「自分のため」であり,娘を自分の思うとおりにコントロールしながら,自分の欲求を娘を通して実現させようとしていることにはっきりと気づいた。「私は人形じゃあない」当然ながら私は猛烈に母に反発し,3ヶ月ほど一言も口をきかないこともあった。困った母は自分の友人を使って私を懐柔しようとしてきたが,ただの反抗期と思っていたようで,自分のしていることを振り返ることもなければ私に謝ることも一度もなかった。
 それゆえ,私の大学受験の一番の目的は,学問もさることながら「合法的に(?)家を出る」ことであった。とにかく,岡山を離れなければ籠の鳥のまま窒息死すると思えたからだ。母から逃げなければならなかった。「二度と岡山に帰るものか」と思って県外の大学に進学したのに……結局のところ,舞い戻ってしまった。
 岡山に帰ることになったのは,母が乳癌を再発したためである。皮肉なものだ。母から離れたいが,見捨てることまでできなかった私が弱いのであろうか。乳癌は当時でも9割の人は治る癌であったが,母はステージⅠでの発見だったにもかかわらず運悪く残り1割の方になり,発症後約10年間,抗がん剤の投与・手術,再発と入退院を繰り返しながら闘病生活を送った。癌になっても母の性格や私に対する態度は変わらなかったが,母の闘病中に私が教員採用試験に合格した時には「よくやった」と涙ながらに喜んでくれた。思い返すに,私が母に褒められたのは人生でこの一度きりではなかったかと思う。
 地元で教師をしていたこともあり,母の葬儀には多くの人が参列してくださった。また葬儀のあとも,何人もの人がわざわざお線香をあげにわが家に立ち寄り,母とのいろいろな思い出話をしてくださった。職業人としての母,友人としての母の話を懐かしそうにしてくださる人々。そこには私が嫌い,避けていた母とは別の母の顔があり,腹立たしくも困惑したのを覚えている。
 今はこうして自分が教師になり,さまざまな母子の姿を目にしている。まれに「ああ,私の母と同じだ」と思うこともある。私に「娘を管理したいんです」とはっきりおっしゃったお母さんもいた。そんなお母さんに「かわいい大切な小鳥も,ギュッと握りしめては死んでしまいます。そろそろ飛び立てるように小鳥を包んだ手のひらを開いていく時ですよ」とお話しすることもある。たいていは不満そうな顔をされるが。
 母が乳癌を発症した年齢を,私はすでに超えた。あの頃は「もういい年のおばさんなんだから癌になることだってあるだろう」と思ったが,今は「まだいろんなことができた年齢だったな」と思える。亡くなったあと母が夢に出てきたのは19年間で一度だけだ。一方で,昨年死んだ愛犬が時折夢に登場するのは,会いたいと思う気持ち故なのか。私が死んだあと,できればあの世でも母には関わりたくないが,娘の気持ちを考えようと思わなかったのか,聞いてみたい気もする。
 母が亡くなった年齢に達したとき,私は母をまた違う思いで受けとめることができるのだろうか。

 「歌の贈り物」       信宮 優子
  私には贈られた歌が二つあります。
 一つは大学を卒業する直前のことです。英語を教えていた中学生のご家族がお別れ会を開いてくださいました。会の終わりに,お母さまのオルガン伴奏にあわせて,幼稚園から中学生のお兄ちゃんまで四人の子ども達が声をそろえて元気に歌を歌ってくれました。私一人だけのために歌ってくれました。全く初めての経験で,照れるやらびっくりするやらうれしいやら。思わず涙があふれてきたのを覚えています。
 もう一つは,大学の後輩が卒業する時に,自ら作詞作曲を手がけた歌でした。考え抜いて地元にUターンすることとした春,四年を過ごした街に捧げて作ったというその歌を私にくれたのでした。書き慣れたタッチの,薄い鉛筆書きの,五線譜ごと。
 歌というものは,それまで,私にとっては,歌いたいから歌うもの,または,歌う場面であるから歌うもの,でありました。この二つの「贈る歌」は私に歌うことの新しい意味を与えてくれました。誰に向かってどんな気持ちで歌うのかということです。
 教員となって校歌を歌います。何度も歌います。歌う場面であるから歌います。でもこっそり考えます。今私は誰に向かってどんな気持ちをのせて歌っているのかと。
 学園祭のシーズンです。例年のことながら体育祭の閉会式でだんだんとハミングになっていく皆さんの校歌にあわせて,ちょっと笑いながら私も校歌を歌います。そして気が早いようですが,卒業式でも歌います。今年もきっと自分に問うでしょう。私は今,誰にどんな気持ちを伝えているの。
 そんな風に歌いながら考える時間は,忙しない日々の中で今の自分に向きあう,短いながらも大切な時間となっている気がしています。それははからずも,私の歌う歌が,私に贈ってくれるものであろうかと思うのです。

 最後に,後輩からもらった歌を紹介させてください。その歌はこんな風に終わります。

  いつもこの場所から見上げていた遠い夕日
  風の吹く日に
  たとえ戻れなくてもここでの日々忘れない

  四年前にこの街に来たときに
  咲いていた桜の並木は
  今年もまたいつものように
  淡い色の花をつけるだろう
  淡い色の花をつけるだろう


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