相談室だより」にふさわしいテーマとは言えないかもしれません。しかし、ある問題や事象に対し戦うことは、抑圧したり・遠慮したり・忖度することよりも、ずっと精神衛生上よいことのように思われます。様々な集団、いわんや社会全体にとっても。昨今は、特にそう感じます。
アメリカの写真家・故ユージン・スミス氏(1918-1978)はこう言っています。
「-信念、トライ、カメラ、そしてフィルム、私の良心の壊れやすい武器たち、
これらを武器に私は戦った」(W.ユージン・スミス)
3年生の担当クラスでは、彼の写真集を授業中回わしたりしましたが、朝日高校図書館には彼の主要な写真集や書籍がそろっています。よく知らなかった人も、是非一度手にとって欲しいものです。「太平洋戦争」の戦場写真、「カントリー・ドクター」の田舎医師が病人に対して奮闘する写真、「助産師モード」では黒人女性が真摯に仕事と向き合う写真、より多く引用されているチャップリン、シュバイツァー、ボブ・ディランらのポートレート、何よりも水俣病の現実や悲惨さを訴え表現した写真の数々・・・。その時配布したプリントには載せましたが、アメリカ人の彼と妻のアイリーンさんは、1970年代前半の水俣病が大きな社会問題となる危機的時期、現地の漁村に3年間漁民とともに暮らしていました。ある時には企業のチッソ側に殴られ、片目を失明しながら、それでも患者・工場・海の写真を撮り続けていました。その時の気持ちは、「水俣で写真をとる理由」という文章の中にあります。
「写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま-ほんのときたま-一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことができる。 写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考への触媒となるのに充分な感情を呼び起こすことができる。われわれのうちにあるもの-たぶん少なからぬもの-は影響を受け、道理に心をかたむけ、誤りを正す方法を見つけるだろう。そして、ひとつの病いの治癒の探究に必要な献身へと奮い立つことさえあるだろう。そうでないものも、たぶん、われわれ自身の生活からは遠い存在である人びとをずっとよく理解し、共感するだろう。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声である。それが唯一というわけではないが、私は写真を信じている。もし、充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私-そしてアイリーン-が水俣で写真をとる理由である。」
彼はどんな対象に対しても、一枚の写真を撮るまでに調査や下調べをもの凄く行っていた。彼自身の主張、職業的な倫理観や人間性を基準にして、とにかく毎日現場で日々カメラを手に戦っていた。
個人の病も社会の病も、彼が言うように「ひとつの病いの治癒の探究に必要な献身へと奮い立つこと」、そしてそこで「戦う」ことが、ピアサポーターでも、カウンセラーでも、保護者でも、もちろん生徒達自身でも大切なことだと思う。S.フロイトが指摘したように、「昇華」させるような取り組みや工夫が常に求められている。戦って真実を見極めてゆくと、改善すべき事柄は身の回りにあふれているように思われる。写真のように、静かに相手を説得する形は、その中の一つであり、ほんのささやかかもしれないが、重要なトライだと思われる。みなさんはそれぞれ、どんなトライをしてゆきますか。それは、社会全体や自分自身、他の人たちを変えてゆくことになるかも知れません。
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