「岡山朝日高等学校運動会史 -汗と涙の仮装行列-」ポスター
 資料館では、「岡山朝日高等学校運動会史 -汗と涙の仮装行列-」をテーマに、平成20年度の特別展を開催しました。運動会が始まった明治中期より連綿と受け継がれてきた仮装行列にとくにスポットを当てて、本校最大の学校行事である運動会を振り返るという試みを行いました。ご高覧してくだいました皆様、誠にありがとうございました。
 写真パネルや解説中心のパネル約150枚を用いて展示を行いましたが、本ページではその一端を紹介します。

運動会の歴史 -それは1世紀以上前に始まった-
仮装行列の歴史 -仮装行列の変遷と背景を探る-
看板製作の歴史 -運動会を飾った看板大集合-
映像展示コーナー -動画の中の運動会・仮装行列-
展示風景
特別展しおり
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運動会の歴史 -それは1世紀以上前に始まった-
本校における運動会の濫觴
 本校において運動会が開催されるようになったのは明治20年代のことで、26(1893)年には行事として定着したようである。尚志会(現在の生徒会に相当)主催行事であり、生徒主導で進められた。『尚志会雑誌』第26号(明治26年6月発行)には、5月13日に当時の校地(現在、岡山市立岡山中央中学校が建つ)で開催された「尚志会春期大運動会」が詳しく紹介されている。人目を引くさまざまな「作り物」(展示物)が用意され、大名行列や赤穂義士の討ち入りなど各種の「通り物」(仮装行列)がクラス単位で演じられた。本校の運動会は余興の方に競技以上の労力が注がれている観があり、これは現在も何ら変わるものではない。
第1回秋季大運動会
第1回秋季大運動会(中山下校舎)<昭和24年度>
第1回秋季大運動会(中山下校舎)
<昭和24年度>
 岡山県立岡山第一高等学校と岡山県立岡山第二女子高等学校が統合され、岡山県立岡山朝日高等学校となったのは、昭和24(1949)年8月31日のことであった。10月8日に開校式を行ったが、すでに秋の運動会シーズンとなっていた。統合といっても旧一高を内山下校舎(烏城城郭内)、旧二女高を中山下校舎(現在は岡山中央中学校が建つ)と称しただけのことであったため、第1回の運動会は校舎別に実施された。
校門の飾り付け
 昭和30年代までは校門の飾り付けは凝ったものが多かった。杉葉でアーチを飾る緑門は、運動会が始まった明治中期よりつくられ続けてきた。
校門の飾り付け<昭和28年度> 校門の飾り付け<昭和34年度>
<昭和28年度> <昭和34年度>
競技種目の変遷について
 プログラムについては昭和33年度よりその内容を知ることができる。昭和30年代前半までは男子の競技として棒倒し、女子の競技としてダンスがあった。昭和39年度は創立90周年記念ということで、市内の高校に参加を呼びかけ1600m招待リレーが行われた。40年度から1年生の着付け競争が始まり、49年度には100周年を祝して10数年ぶりにマスゲームが行われた。一方、着付け競争は昭和54年度、マラソンは56年度、1500m走と走幅跳は平成5年度、走高跳は16年度を最後に姿を消した。近年は競技数そのものが減少している。長らく2・3年生の演目であった仮装行列は平成元年度以降は2年生の演目となったが、7年度に3年生に戻された。これに伴って2年生は応援合戦を演じるようになった。
着付け競争
着付け競争<昭和43年度>
着付け競争<昭和43年度>
 この競技はクラス対抗で担任に着付けを行い、扮した衣装で行進させるものである。赤ちゃん、ドレス姿、はては子連れ狼などさまざまな着付けが試みられた。
マラソン
東山峠を越えるマラソン<昭和39年度>
東山峠を越えるマラソン<昭和39年度>
 昭和30年代は南門より出て、東山峠を越えて曹源寺に至り、学校に戻ってくるコース(9km強)で競われた。しかし、交通事情の悪化により、41年度からは、奥市グラウンドを廻って学校に戻る約4kmのコースに変更された。
ファイアーストーム
最初のファイアーストーム<昭和25年度>
最初のファイアーストーム<昭和25年度>
 ファイアーストームは現在の校地で初めて実施された昭和25年度の運動会終了後初めて行われ、以後、運動会を締めくくる行事として定着した。しかし、生徒の帰宅時間が遅くなることや、近隣住民への迷惑、火災の危険が心配されることから、実施を巡って生徒会側と教員室側が議論を繰り広げたこともあった。炎は小さくなったが、現在も後夜祭として引き継がれている。
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仮装行列の歴史 -仮装行列の変遷と背景を探る-
Ⅰ期 「純粋」仮装行列の時代(昭和24~40年度)
 複数の人間で持ったり、引っ張ったりするような「出し物」は出現しておらず、昭和30年代末まではデモンストレーションも行われていなかったので、「仮装」して運動場のトラックを「行列」するという文字通りの「仮装行列」であった。仮装そのものの善し悪しが勝負の時代であった。
「タンクロ保育園卒園式」<昭和26年度> 「道徳教育ハ実施サレタガ」<昭和33年度>
「タンクロ保育園卒園式」<昭和26年度> 「道徳教育ハ実施サレタガ」<昭和33年度>
「世紀の紳士淑女録」<昭和37年度> 「戦後20年のあゆみ」<昭和40年度>
「世紀の紳士淑女録」<昭和37年度> 「戦後20年のあゆみ」<昭和40年度>
Ⅱ期 「出し物」が練り歩いた時代(昭和41~56年度)
 Ⅱ期-1 「出し物」の出現(昭和41~42年度)
「トロイの木馬」<昭和41年度>
「トロイの木馬」<昭和41年度>
 昭和41年度に3年G組が「トロイの木馬」を製作する。この作品が本校の「出し物」史上、第1号と言えるであろう。角材でフレームを組み、表面を麻袋などで覆って木馬としたもので、高さは4m程度あった。「出し物」製作は流行とはならなかったが、年度をこえて継続されていった。しかし、まだ「出し物」は仮装行列のための大道具であった。
 Ⅱ期-2 「出し物」づくりの本格化(昭和43~46年度)
-「出し物」は仮装行列のシンボルへ-
 昭和43年度からは「出し物」を製作するクラスが増え、数人の力では移動できないくらいの大きさを持ったものが登場するようになった。44年度はさらに巨大化、複雑化していく。「出し物」時代は43年に本格的に到来したと言えよう。仮装行列に新しいシンボルが登場したのである。
3年E組が製作した天守閣<昭和44年度> 「自由の女神」(3年I組)<昭和45年度>
3年E組が製作した天守閣<昭和44年度> 「自由の女神」(3年I組)<昭和45年度>
 Ⅱ期-3 「出し物」が練り歩いた時代(昭和47~56年度) -仮装行列の主役は「出し物」-
 昭和47年度の仮装行列は、車輪を備え、自重を車輪で支える形の「出し物」が多数出現した。これによって移動の手間が改善されたほか、大型化・精巧化に拍車がかかった。トラック内で演技を行うデモンストレーションも一般化した。「出し物」を製作することそのものが、仮装行列の目的と化し、「出し物」は仮装行列の主人公となった。とりわけ昭和53~56年度は、規模・質の上でも卓越しており、仮装行列「出し物」史上、まさしく黄金期であった。
3年E組のデコレーショントラック<昭和51年度> 3年I組製作のMiG25<昭和51年度>
3年E組のデコレーショントラック<昭和51年度> 3年I組製作のMiG25<昭和51年度>
建造中の宇宙戦艦(3年I組)<昭和53年度> 「愛は地球を創る」(3年A組)<昭和54年度>
建造中の宇宙戦艦(3年I組)<昭和53年度> 「愛は地球を創る」(3年A組)<昭和54年度>
「Most アメリカン グラフィティ」(3年A組)<昭和55年度> 「火の鳥2772」(3年H組)<昭和56年度>
「Most アメリカン グラフィティ」(3年A組)
<昭和55年度>
「火の鳥2772」(3年H組)<昭和56年度>
「出し物」史上の最後を飾った作品
Ⅲ期 「出し物」が消えた時代(昭和57~63年度)
-車輪付き大型「出し物」は禁止された-
3年D組が製作した火の鳥<昭和56年度>
3年D組が製作した火の鳥<昭和56年度>
 昭和57年度から車輪を有する大型の「出し物」の製作は禁止された。明文化されなかったが、車輪はつけない、大きさは長さ3m、幅2m、高さ2mまでという規制が設けられた。規模の拡大による時間・労力・経費などの増大、勉学への支障、現役進学状況の不振などのさまざまな理由が教員室側を動かせた。この頃、3年生の仮装行列は仮装をして決められた時間内でデモンストレーションを行うものであったが、「出し物」がなくなったことで、仮装行列のシンボルが失われたばかりでなく、仕掛けを施してデモンストレーションの目玉とすることもできなくなった。そのため、踊りを中心に構成せざるをえなくなり、仮装行列はますます「行列」でなくなっていった。
Ⅳ期 「仮装行列」の沈滞(平成元~5年度) -仮装行列は2年生の演目へ-
「ジャックとヤシの木」(2年F組)<平成3年度>
「ジャックとヤシの木」(2年F組)<平成3年度>
 昭和63年度は、2年生の仮装行列にも踊りや振り付けが認められ、3年生と同様な形式で仮装行列が行われることになった。しかし、その引き替えに、3年次での仮装行列は行われないことにもなった。これは平成元年度から始まる予定となっていた「大学入試センター試験」の実施日が1月ではなく、12月中になるのではないかという噂が出て、3年次での仮装行列の実施を教員室側が躊躇したからである。実際のところはこのような事態にはならなかったが、以後、仮装行列は3年生に戻されることはなく、2年生のみが演じるものとなった。結果、「出し物」と言えるようなものはほとんど作られなくなり、おそろいの衣装を着て音楽に合わせて踊るという形式が定着した。「仮装」というには中途半端であり、「行列」というわけでもないパフォーマンスが演じられることとなった。
Ⅴ期 3年生による「仮装行列」復活(平成7年度~)、復活はしたが……
 運動会・文化祭を活性化するため、創立120周年にあたる平成6年度から新しい取り組みが始められた。体育祭にブロック制が導入され、学年縦割りのクラスで総合優勝を争う仕組みができた。「応援合戦」が登場し、2年生が中心となってこれを行った。7年度には3年生の仮装行列が復活、翌年度には全クラスが参加、名実ともに復活した。大きさについての規定は明文化されなかったが、車輪なしの、手で持てる程度の「出し物」は登場させることはできたから、再び製作が始まった。10年度には多数の「出し物」が製作された。しかし、ここ最近は仮装行列の背景、いわゆる「書き割り」を製作するクラスは増加したが、「出し物」はむしろ減少している。また、ミュージカル仕立てのものが増えたことも特徴で、これに伴って衣装に凝るものが増加している。
 仮装行列に力を合わせて取り組んだことは、高校生活の最大の思い出であることに今も昔も変わりない。流した「汗」と「涙」は何ものにも代え難い朝日高生の青春の象徴である。
3年H組が製作した怪獣<平成10年度> 3年H組の仮装行列<平成13年度>
3年H組が製作した怪獣<平成10年度> 3年H組の仮装行列<平成13年度>
3年I組の仮装行列<平成17年度> 「ライオンキング」(3年C組)<平成18年度>
3年I組の仮装行列<平成17年度> 「ライオンキング」(3年C組)<平成18年度>
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看板製作の歴史 -運動会を飾った看板大集合-
 ブロックを応援する看板を、観客席に建てることは恒例となっている。全クラスが製作し、トラックを囲むように建てられたこともあったが、昭和30年代になると1年生の各クラスがブロックを代表して製作するようになった。昭和20~30年代のそれは大きさやデザインももさまざまなものが見られた。
各クラスが製作した看板で囲まれたトラック<昭和29年度>
各クラスが製作した看板で囲まれたトラック<昭和29年度>
運動会を飾った看板大集合
運動会を飾った看板を年度ことに整理して一堂に展示した。ひとつひとつの看板は6畳分ほどの大きさがある。
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映像展示コーナー -動画の中の運動会・仮装行列-
 校内に保存されている写真や卒業アルバムの写真を数千枚を集め、パソコンで閲覧できる画像データベースを作成した。 また、昭和35~37、39~41年度の運動会が記録されている8mmフィルムを電子ファイル化し、DVDにまとめ、ともに見学者に自由に見てもらえるようにした。運動会の記録フィルムはこのほかにも34年度、43年度のものが残されており、順次電子ファイル化する予定にしている。
画像データベースを閲覧する見学者 ビデオコーナー
画像データベースを閲覧する見学者 ビデオコーナー
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展示風景
エントランス 上海新中高級中学の生徒の訪問
エントランス 上海新中高級中学の生徒の訪問
展示室の状況 仮装行列の歴史コーナー、実物展示コーナー
展示室の状況 仮装行列の歴史コーナー、実物展示コーナー
山海嘉之筑波大学大学院教授も見学 仮装行列の歴史コーナー
山海嘉之筑波大学大学院教授も見学 仮装行列の歴史コーナー
看板製作の歴史コーナー 運動会の歴史コーナー
看板製作の歴史コーナー 運動会の歴史コーナー
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