池田光政、泉仲愛・津田永忠に命じて、岡山城内松平政種の旧邸(岡山市民会館のある一郭)を修繕させ、仮の学館とした。
朝日高校の沿革
本校の創立について
寛文6年(1666)池田光政が岡山城西ノ丸(現岡山市民会館のあたり)に仮学館をつくり、寛文9年(1669) これを西中山下(現岡山中央中学校、現在は岡山市北区蕃山町)に移し、「学校」(国学)とした。明治4年(1871)、廃藩置県で県庁の管理下におかれ、 明治5年(1872)年頭には教育内容を改めて「普通学校」と改称して、士族以外の入学も認めた。学制制定後は藩校等の旧来の学校は全面廃止の措置がとられたにもかかわらず、「第一番小学」の名称で一時は許可されたが、6年11月には廃校となり、教育目的と施設・校具は「私塾遺芳館」に継承された。翌7年(1874)6月、岡山城西ノ丸に教員養成の目的で「温知学校」が開設されたが、8月教員志望でない生徒も、その「予科」に「員外生」として入学が認められ、遺芳館の幼年生が数多く移籍した。この年を創立の年としている。
明治8年(1875)11月、温知学校とその予科は藩校跡(現岡山中央中学校)に移った。
岡中・一中・一高・朝日高の年譜
開校式を行い、最初の掟を定めた。
生徒の増加により仮学館が狭隘となったので、光政は泉仲愛・津田永忠を惣奉行として、学校の新築方を命じた。西中山下円乗院跡地及び藩士の邸宅を合わせて校地(現岡山中央中学校校地)とした。
開校式挙行。
正月より着工された普請が終了した。
教則を改め、洋学をも採用し、皇漢洋の3学科とした。
廃藩置県により、県庁の管理下におかれた。
西毅一を学校督事に任命し、教則を改め、普通学校と改称し、英仏学を教授し、庶民の入学を許した。別に校内に皇学所をもうけ、校外に漢学塾をおき、普通学校が統轄した。洋学所を普通学校に合併した。
普通学校を岡山県第一中学区一番小学と校名のみ変更し、洋学授業を続けた。
教員仕立ノ処と校名変更を企て、校内に洋学教場を設ける、としたが、文部省が認めなかった。
私立に転換し、遺芳館に転換した。
小学校教員養成のための温知学校を、旧岡山城西ノ丸に開校する許可をえた。
温知学校予科に教員志望でない生徒を員外生として入学を認めるよう規則を改正して、遺芳館の幼年生を受け入れた。多くの者はこれを「本校の濫觴」と考えてきた。
温知学校と共に西中山下に移り、遺芳館と同居した。岡山県権中属設楽九皐を校長とし、「大に規模を釐革した」。
温知学校が岡山県師範学校に改組・改称され、岡山県師範学校予科となる(許可は3/5)。
設楽校長職を辞し、岡山県権大属加藤次郎が校長を兼務した。
諸規則の改正を願い出たが、ようやく9月14日に許可がでて、変則中学科となった。〔明治12年2月までの間に、岡山県師範学校変則中学校と改称されたはずだが、時期は不明〕
加藤校長の離任に伴い、岡山県一等属第五課長太田卓之が校長を兼務した。
岡山中学校となり、経費は地方税をもって支弁されることとなった。
教則をあらためて、甲乙の2種とし、甲は修業年限3か年、乙は4か年とした。
津山中学校を廃し、岡山中学校へ併合した。
太田校長、離任。
駒井重格、校長に就任。
修業年限を予科1年、本科4年としたという。
駒井校長大蔵省御用係に転出し、二等助教諭喜多見久通、校長心得を兼務。
岡田純夫、校長に就任。
教則を改め、初等中学科8級(4年)、高等中学科4級(2年)とした。
この年、申しあわせて円形の帽子を作り、ペン先を交叉した図柄の徽章を用いた。
西教場の改築工事に着手。
西教場、新築落成。
揃いの服と帽子を初めて着用。今に残る最も日付が古い写真。裏面に木畑竹三郎氏の手で、「明治十七年拾二月十五日於中学校教場南側撮影焉」と記されている。
師範学校と合併し、岡山学校中学科となった(県達甲18号)。
明治天皇臨御。
生徒数、初等中学科8級41名、7級34名、6級33名、5級21名、4級16名、3級18名、2級12名、高等中学科2級3名、計178名。
コレラ流行につき臨時休校。
学校令により、師範学校と分離し、岡山県尋常中学校(5年制)となる。
開校の予定のところ、コレラの流行が終息せず、延期された。
岡田校長の離任に伴い、教諭渡辺隆、校長を兼務。
生徒総集会を開き、尚志会の規則を議定、幹事を選出した。
中学校・師範学校教員別々に任命せられ、両校全く分立した。
尚志会主催の運動会を矢坂山に開く。以後運動会はたびたび開かれた。
尚志会が制服・制帽(角帽)及び帽章(桜花の中央に中の字を配した)を定めた。〔本校にとって2つ目の校章〕
岡山県尋常中学校規則を制定(岡山県令第29号)。
岡田純夫再び校長に就任。
生徒監督規則を設け、各級に級監(現在の担任)・組長を置く。競漕会を京橋下で開催、これが尚志会水上運動会として引き継がれた。
明治天皇・皇后両陛下の「御真影」が下賜された。
現存する最古の卒業写真。裏面に木畑竹三郎氏の署名のもとに、「明治廿一年七月十四日尋常中学校卒業證書受領之後於岡山区東中山下佐々木撮影焉于時午後四時也伝々」と書かれている。この制服は写真中の彼らが尚志会の中心にあって制定したもの。
この年、生徒の服制を改め、フック懸けのジャケットとした。
尚志会『尚志会雑誌』を創刊。
『尚志会雑誌』第壱号
コレラ流行のため臨時休校1か月に及んだ。
岡田校長は尋常師範学校の校長に任じられ、10日、岡山中学の校長を兼務することになった。
教育勅語の謄本が下賜され、「捧読式」を挙行した。
「本校卒業生に限り、優等の者は、第三高等中学校本科に編入するの特待を得たり」。
生徒数、1年級108名、2年級70名、3年級38名、4年級23名、5年級19名、計258名。
洪水の被害甚大で、5週間休校(~11/20)。
27号により、『尚志会雑誌』は発行停止の処分を受けた。
尚志会、『烏城』を創刊。
『烏城』第壱号
津山・高梁両中学校の設立を予定に、岡山県岡山尋常中学校と改称(県告示第42号)。
岡田校長、尋常師範学校の専任校長に転じ、須崎芳三郎が校長に就任。
岡山県立尋常中学校規則を制定(岡山県令第38号)。
文部大臣西園寺公望が来校し、授業を参観。
入学時期(9月)を6月に改めた(入試は5月11日~13日)。
1月より岡山市内山下3番地(烏城城郭内)に建設中の校舎、竣工(11/13)、新校舎の落成式を挙行(11/21)。のちにこの11月21日を創立記念日とする。
新築間もない頃の校舎と寄宿舎
新学期の開始を4月に改めた(入試は4/4~5)。
夏、寄宿舎が落成し、10月1日より、生徒の入舎をうながした。
寄宿舎最初の舎生。校舎の烏城城郭内への移転に伴い、200名収容の寄宿舎が新築された。
須崎校長に替わり、服部綾雄、校長に就任。
新築校舎を背景にした卒業写真。裏面には「明治三十一年三月岡山尋常中学校職員及卒業生徒一同本館前庭ニ於テ撮影ス」と記されている。
岡山県岡山中学校と改称し、修業年限1か年の補習科を設置。
生徒宿所に門標を掲げることを決定。〔門標の配付は平成28年度をもって終わった〕
徽章の意匠をほぼ現今と同じにかえた。〔本校にとって3つ目の校章〕
生徒数、1年級145名、2年級125名、3年級110名、4年級129名、5年級78名、計587名。
岡山県立岡山中学校と改称し(県告示137号)
学則を改正し、「本校紀念日」も定めた(県令65号)。〔戦後、この日が創立記念日となった〕
「本校紀念式」を挙行。
服部校長の辞任にともない、光岡金雄が校長に就任。
服部校長送別の際の記念撮影。裏面に「明治三十五年五月服部綾雄前会長及阿部幹事送別ノ為メ尚志会部長及幹事一同撮影」と記されている。
岡山中・津山中・高梁中・矢掛中の4校で協同選抜を実施。〔協同選抜は大正2年まで続いた〕
制服を改正し、「上衣はヂヤケツト形の長きものにて、金釦七つを付し、襟元に青条を纏」うものとした。
皇太子殿下岡山中学へ行啓。この日を東宮行啓記念日として、以後、ボートレース等を開催した。
ラシャ服地を小倉地に改め、上衣の丈を長くした
校長の寄贈による校旗の推戴式を行い、校訓を定めた。
校訓カード
この年、2階建教室等を建築した。
創立40周年記念式を挙行。
大正天皇の御真影を奉戴した。
「自彊会」発会式。
生徒数、1年169名、2年162名、3年163名、4年154名、5年105名、計753名。
光岡校長退任。
野村浩一、校長に就任。
新武道場の道場開きをした。
野村校長にかわり、柳井道民が校長に就任。
岡山県岡山中学校と改称。
岡山二中の設置に伴い、岡山県第一岡山中学校と改称(県告示153号)。
野球部、第7回全国中等学校野球優勝大会に出場し、準々決勝まで進出。〔夏の甲子園へ初出場〕
創立50周年記念式を挙行。賛助音楽会(11/20、深柢小学校)、記念講演会(11/22、校内・深柢小学校)、記念展覧会(11/22・23)を開催。賛助音楽会では山田耕作作曲の新校歌が披露された。
配属将校の制度がはじまり、高橋少佐が赴任した。
岡山県下中等学校聯合発火大演習に参加(~11/10)。
五十周年記念館「憲章館」落成。
寄宿舎を廃した。〔建物は昭和5年に解体された〕
昭和天皇・皇后両陛下の御真影を奉戴した。
柳井校長、欧米出張(~11/16)。この間、視学青柳泰雄、校長事務取扱となる。
昭和4年のアルバムに掲載された全景
柳井校長、離任。同日付で、裏川寅蔵が校長に就任。
4年生修学旅行(~/6)。〔一中にとっての最後の修学旅行となった〕
室戸台風による被害甚だしく、授業不能、臨時休校。
生徒数、1年262名、2年250名、3年260名、4年223名、5年170名、計1,165名。
創立60周年記念式を挙行。
作業科教室など建築。
昭和12年のアルバムに掲載された校地全景。撮影は昭和11年。
軍人遺家族を援助する勤労奉仕始まる。
尚志会を尚志報国団に改組。
尚志報国隊を編成。
「烏城第一号機」進航式を挙行(練兵場)。
校内に岡山県立岡山夜間中学が設立された。〔同校はのちに岡山県立烏城高等学校となった〕
阿部山の開墾に従事(~7/30)。〔阿部山は浅口市、笠岡市、矢掛町に跨がる丘陵〕
裏川校長退任し、同日付で、高畑浅次郎、校長に就任。
補習科を卒業生指導講習会と改称して継続、入会考査を実施。
入学考査(~24)。〔この時の考査は学区制のもとでの岡山二中との綜合考査(20年も同じ)〕
5年生、学徒動員(通年)の第一陣として、品川白煉瓦株式会社に出動。
4年生、倉敷工業株式会社万寿航空機製作所に出動。
3年生、倉敷工業株式会社万寿航空機製作所に入所。
中等学校が4年制となったため、5年生と4年生が同時に卒業。卒業後も動員は継続。
空襲により、烏城とともに校舎が焼失し、学籍簿等も灰燼に帰した。
「当宿直日誌」昭和20年6月29日の条と、この条に添えられた図。右肩に高畑校長の筆跡で「六月廿九日 空襲 校地ニ弾痕ヲ印タル図」とある。
この図に記録されているのは校舎外に落ちたものである(校舎の上に落ちたものは痕跡が残らない)。
3年生、倉敷工業株式会社万寿航空機製作所第三工場(早島)に出動。
生徒数、1年343名、2年336名、3年291名、4年287名、計1,257名。
倉敷工業株式会社万寿航空機製作所で退所式。
校舎焼跡、及び吉備津神社、倉紡の青年学校を借りて授業再開。
進駐軍到着につき休校(~24)。
伊島国民学校を借りて3・4年生の授業開始。
岡山市公会堂を借りて1・2・5年生を収容。
補習科を復活させた。
鳥坂山の開墾に従事。〔鳥坂山は岡山市中区兼基と沢田に跨がる操山の一つの峰〕
再び5年制となる。
戦後初の入学考査を実施(~3)。〔岡山一中にとって最後の入試となった〕
仮校舎起工式を行う。
仮校舎が竣工し、2~5年生が岡山城城郭内の校地で再び学ぶことができるようになる。〔1年生は翌年1月に収容された〕
戦後初の運動会を開催。〔仮装行列が復活した〕
新制中学校の発足に伴い、入試は実施されなかった(本格的な高校入試は昭和25年から)。2年修了者は岡山県第一岡山中学校併設中学校3年生、1年修了者は2年生となる。
天皇陛下を奉迎。
生徒に話しかけられる昭和天皇。後の校舎は旧岡山城本丸中段に戦後急造されたバラック校舎。
蹴球部、第26回全国中等学校蹴球選手権大会へ出場。
新制高校となるにあたり、岡山県立岡山第一高等学校と改称した。旧制中学校5年修了者のうち卒業を希望しないものは新制高校3年生、併設中学校2年修了者は岡山県立岡山第一高等学校併設中学校の3年生となる。
生徒数、併中3年361名、1年388年、2年272名、3年280名、計1,301名。
高畑校長、教育長に転出し、高林基郎が校長事務取扱となる。
尾野作次郎、校長に就任。
高校再編成が実施され、岡山第一高等学校は岡山第二女子高等学校と合併して、岡山朝日高等学校(普通課程・家庭課程)となる。原田親、校長に就任。〔旧一高を内山下校舎、旧二女高を中山下校舎と称したがこの年は実質的な統合は行われなかった〕
本丸下の段に、2階建校舎完成。
『岡山朝日高校新聞』第1号発刊。〔幾度にもわたる中断を挟みながらも刊行継続中〕
岡山朝日高等学校開校式を内山下校舎で挙行。
朝日高校開校式。内山下校舎で挙行。現在不明門(復興)が建っている場所から西を望んだ写真。
校長訓辞、PTA両校代表祝辞、両校の生徒代表挨拶があった後、双方向き合って「どうぞよろしく」。
中山下校舎(旧二女高)で運動会を開催。〔この年は運動会は校舎ごとに開催され、内山下校舎(旧一高)では11/19の開催。この年は卒業式も別々に開催された〕
中山下校舎、修学旅行を実施〔3年は東京方面、2年は京都・奈良方面〕
創立75周年記念式を挙行。
本丸中の段に、校長室完成。
『朝日文学』創刊号発刊。〔刊行継続中〕
戦後初の本格的な新制高校入試が始まる。操山高校との総合選抜制開始。〔総合選抜制による入試は平成10年をもって終了した〕
1年生の定員が普通課程400名、家庭課程50名となる。
実質的な統合が進み、1年生は中山下校舎、2・3年生は内山下校舎で学ぶようになる。
この年度より、女子に新制服を導入。
香川県本島での臨海学校再開。〔臨海学校は昭和47年をもって終了した〕
旧制第六高等学校跡(国富校舎)を借用可能となり、3年生を国富校舎に移転させる。
国富校舎で初めて運動会を開催。〔ファイヤーストームで盛り上がる〕
国富校舎に家事教室が完成。〔のちに階段校舎建設に伴って曳家されて合併教室などに用途変更された。平成20年9月に取り壊された〕
国富校舎に野球用バックネット新設。
中山下校舎を廃止して、新入生を内山下校舎に収容。
学校行事として1年生希望者が参加する富士登山を実施(~23)。〔有志による富士登山は前年に始まる。現在も実施されており、人気は極めて高い〕
昭和26年の富士登山(7.20~23)
サッカー部、第30回全国高等学校サッカー選手権大会へ出場。〔同部は第31回大会にも連続出場を果たす〕
『受験記』発刊。〔第4号まで刊行され、平成5年に再刊された〕
校舎(二階建校舎)が増築されたため(7/29)、2年生を国富校舎に移転させる。
家庭課程の募集を停止。〔生徒の卒業をもって昭和30年3月、同課程は廃止された〕
1年生の定員(普通課程)が430名となる。
校舎(二階建校舎)がさらに1棟完成したため(7/29)、内山下校舎を廃止して全学年を国富校舎に統合。
国富校舎への統合によって廃屋となった内山下校舎。テニスコートはすでに完成。
講堂(大講堂)建設に先立って旧講堂が解体される。
操山高校との親睦を目的に「朝日操山総合競技定期戦」(通称「操朝戦」)始まる。〔「三校戦」、「四校戦」、「五校戦」へと発展したが、平成10年をもって終了した〕
創立80周年記念式及講堂(大講堂)落成式を挙行。校内では記念書画展、朝日美術展、回顧展、家庭科展、写真展を開催。校歌制定。
弓道場の改築完成。
生徒の卒業に伴い、家庭課程廃止。
生徒会を組織することを職員会議が諒承。
合併教室(小講堂)、生物物理講義室完成。〔小講堂は平成16年3月、生物物理講義室は平成9年3月に取り壊された〕
1年生の定員が450名となる。
大蔵省より六高跡地(5,596,092㎡(本校敷地の大部分))を譲与。〔以後、旧六高の土地・建物の取得が進んだ〕
岸信介首相来校、講演。〔同氏は昭和9年3月にも来校〕
普通教室2棟完成。〔これらは平成9年3月に取り壊された〕
昭和33年より38年までの卒業アルバムに載せられた本校の全景
生徒会長の選出方法を直接選挙制へ改正。〔従来は総務制であった〕
運動会後のファイアーストームが復活した。
戦後初めての学年全員が参加する修学旅行を実施(~5)。〔広島・宮島を基本方面とする修学旅行は昭和48年まで続いた〕
後藤亘、校長に就任。
六高同窓会が国旗掲揚塔を建設。
岡山国体に協力。
1年生の定員が520名となる。
生徒に新校旗を披露。
この年度より年次進行で女子制服を変更。
創立90周年記念式並びに同窓会館落成式を挙行。記念音楽会を開催(11/20、岡山市民会館)。
創立九十周年記念式当日の校門(左)と新築当時の同窓会館(右)
普通教室1棟完成。〔この校舎は平成9年3月に取り壊された〕
旧校舎の最後の姿を示す航空写真(昭和42年頃と推定)
1年生の定員が480名となり、全定員は1,520名となる。〔本校最多定員の年度〕
1年生の定員が460名となる。
1年生の定員が440名となる。
校舎改築第Ⅰ期工事起工式を挙行。〔新校舎の設計は東京大学工学部吉武研究室〕
新校舎第一期工事・第二期工事(昭和43年秋)。間伐材とバン線で組まれた足場が当時を忍ばせる。
新校舎第一期・第二期工事竣工(昭和44年3月頃)。本館の特異な断面の形状がよく見てとれる。
新校舎第Ⅰ期・第Ⅱ期工事完成。
1年生の定員が435名となる。
旧本館取り壊し始まる。〔数次にわたって取り壊され、昭和47年3月にはすべて撤去された〕
新校舎第Ⅲ期工事完成。
新校舎第Ⅲ期工事の完成(昭和45年)。管理棟に近い教室2クラス分はまだ建築されていない。
修学旅行を2泊3日に延長して実施(~11/1)。〔以後、修学旅行は2泊3日となった〕
特別教室棟完成。
特別教室棟建築工事
本館との渡り廊下には当初屋根はない
1年生の定員が450名となる。
管理棟(本館の西端部分)完成。
体育館完成。正門付近造園整備完了。
翌49年には体育館の東側には創立百周年記念館が建てられた。
戸川大六、校長に就任。1年生の定員が465名となる。
『図書館報』第1号発刊。〔年2回発行、刊行継続中〕
サーキットトレーニング施設完成。〔この施設は平成20年9月に取り壊された〕
1年生の定員が450名となる。
修学旅行の行き先を箱根・伊豆方面に変更(~11/2)。〔昭和52年からは信州方面となる〕
創立百周年記念式典、校舎・体育館・記念館落成式挙行。記念音楽会(10月9日)、回顧展(11月20~22日)を開催。
1年生の定員が445名となる。〔岡山県立岡山芳泉高等学校が開校、総合選抜は4校体制で実施されるようになった〕
木曽路ハイキングを始める(~31)。〔木曽路ハイキングは昭和56年の第7回をもって終了〕
『岡山県立岡山朝日高等学校 教育史資料』第1集発行。〔昭和57年までに第10集まで刊行された〕
河本泰輔、校長に就任。1年生の定員が470名となる。
体育館に体育教官室、器具庫を増築。
運動場に常設のスタンド完成し、県に寄付される。〔この年の運動会から使用された〕
体育の格技の総仕上げとして、柔道・剣道大会を開催。〔昭和57年度からは女子のダンスが加わり、柔道・剣道・ダンス大会となる、現在も毎年秋に開催〕
『岡山朝日研究紀要』第1号発行。〔刊行継続中〕
1年生の定員が445名となる。〔岡山県立岡山一宮高等学校が開校、総合選抜は5校体制で実施されるようになった〕
集団宿泊指導(のちに集団宿泊研修)を始める(~6、弥勒の里)。〔翌年からは国立三瓶青年の家に変更して2泊3日で実施、平成10年をもって終了し、「1日ホームルーム」に引き継がれた〕
1年生の定員が440名となる。
合併教室棟(旧化学教室)を取り壊す。
この年の運動会をもって巨大な「山車」づくりは終わった。
巨大な山車が練り歩いた仮装行列最後の年に現れた山車の極致。内部にいた数人の力で疾走し、大喝采を浴びた。
剣道場(研修ホール)完成。〔1階のダンス場は昭和61年9月になって整備された〕
完成した剣道場。当初は1階は未整備であった。
六高記念館が県に寄付される。
1年生の定員が405名となる。
サッカー部、全国高等学校総合体育大会に出場(鹿児島)。
阪本暁夫、校長に就任。1年生の定員が470名となる。
六高記念館書庫が県に寄付される。
創立110周年記念式典を挙行(岡山市民会館)。創立110周年記念同窓資料館落成式を挙行(同日)。記念演奏会(11/20、岡山市民会館)。記念回顧展(11/21~25、同窓資料館)。記念美術展(12/4~9、岡山県総合文化センター)も開催。
1年生の定員が475名となる。
校歌・歌詞の碑建立。
校歌碑は校門を入って左側の体育館の脇に設置された。新校舎建設工事にともなってやや北に移設された。
芸術教室棟完成(1階:美術教室、2階:書道教室、3階:音楽教室)。
研修ホール(剣道場)1階にダンス場を整備。
役重正憲、校長に就任
特別教室棟(理科棟)のLL教室の設備を更新。
1年生の定員が505名となる。〔1年生は11学級となった〕
1生の定員が510名となる。〔全定員は1,510名〕
佃幸男、校長に就任。1年生の定員が495名となる。〔各学年とも11学級となった〕
1年生の定員が465名となる。
「第18回岡山市内普通科五校対校競技大会」(五校戦)で優勝。〔三校戦・四校戦・五校戦の時期の優勝はこの回のみ〕
台風19号の強風で樹木や校舎、校門門扉が大きな被害を受ける。〔門扉は翌年3月に新造して取り替えた〕
校地南西隅の自転車置場が折れた銀杏の枝で圧壊
強い西風で門扉の下半分が壊れた
本館(階段教室)に電算室を整備。
中庭(本館と特別教室棟の間)の整備が始まる。〔平成6年3月に完了〕
1年生の定員が450名となる。
1年生の定員が435名となる。
県主導で、「魅力ある学校づくり事業」開始。
『受験記』再刊。〔刊行継続中〕
校史作成委員会設置。
中庭の整備完了。
中庭整備直前(左)中庭整備後(右)
馬場克彦、校長に就任。1年生の定員が425名となる。
家庭科、ダンス・武道の男女共修開始。
カラー仕様の学校案内を初めて発行する。
「創立120周年記念朝日祭」を開催(~15)。〔初の文化祭・体育祭連続開催、現在もこの方式を踏襲〕
創立120周年記念式典を挙行(岡山市民会館)。記念演奏会(11/26、岡山シンフォニーホール)、記念回顧展(11/21~25)、記念美術展(11/15~20、岡山県総合文化センター)を開催。
創立120周年記念式典
創立120周年記念回顧展
創立120周年記念演奏会
創立120周年記念美術展
1年生の定員が410名となる。
体育祭において3年生による仮装行列が復活した。
新入生を対象にした生徒会執行部による『入学のしおり』刊行。〔刊行継続中〕
1年生の定員が400名となる。
県主導で、学区をもつ普通化を対象にした「普通科の特色づくり推進事業」開始。
初めて北海道への修学旅行が実施される(~16)。〔飛行機を使用した最初の修学旅行〕
『岡山朝日高等学校 校史資料』第1集発刊。〔刊行継続中〕
特別展の関連事業として「岡中・一中・朝日高校に学んだ先輩の文学作品の読書感想文および創作文学のコンクール」を開催。〔次年度から「岡山朝日文芸作品コンクール」と改称し、現在も毎年開催〕
大講堂で火災が発生し、ステージが焦げる。
岡山県立烏城高等学校、岡山県立短期大学跡地(現岡山市北区伊島町)に移転。烏城高校が使用していた校舎は、小講堂と野外トイレを除いて3月に撤去された。
平田賢治、校長に就任。
この年度、ホームページが開設される。
第18回岡山市内普通科五校対校競技大会(五校戦)開催。〔五校戦はこの年が最後となった〕
本校初のオープンスクールを開催。〔この年は2回実施〕
平成10年度2回目のオープンスクール(10/31)
岡山県高等学校通学区域に関する規則の一部が改正される(小学区制から中学区制へ、総合選抜制が廃止されて単独選抜制へ移行)。
単独選抜制に移行して最初の学力検査を実施。
単独選抜初の合格者発表(3/19)
集団宿泊研修の後継行事として1年生を対象に1日ホームルームを始める。〔平成17年度から2年生にも拡大された〕
補習科に「楠友館」との呼称を付ける。
創立125周年記念式典、記念演奏会を開催(岡山シンフォニーホール)。記念美術展も開催(12/14~19、岡山県総合文化センター)。
海本博允、校長に就任。
鳥取県西部地震で本館(階段校舎)の窓ガラスが多数割れるなど大きな被害を受ける。
部活動表示塔を正門付近と校地北西隅の2個所に設置。
1年生の定員が360名となる。
岡山県は「おかやま教育の日」を制定、本校は授業公開や学校説明会等を実施した。〔以後、学校行事として定着、近年は登録有形文化財の一般公開を併せて行っている〕
学校完全五日制開始。PTA主催による土曜活用事業開始。
初の海外への修学旅行実施(~18、韓国と沖縄の2方面で実施)。
各教室に石油ファンヒーターが導入された。
岡山県立岡山朝日高等学校管弦楽団第1回定期演奏会「春うららの音楽会」開催。〔三木記念ホールで開催、次年度以降は岡山シンフォニーホールに会場を移して毎年3月に開催〕
柴岡元、校長に就任。1年生の定員が320名となる。
教科「情報」、「総合的な学習の時間」(朝日髙では「ACT(アクト)」と呼称)が始まる。
東京方面への修学旅行を始める(~7/17)〔東京大学の研究室を多くの生徒が訪問するようになるのは平成17年度から〕
国語・数学・英語で自校作成問題による学力検査を始める。〔現在、自校作成問題を使用しているのは本校のみである〕
1年生の定員が320名となる。
PTAの費用負担で、普通教室へのエアコン設置完了。
合併教室(小講堂)撤去。
創立130周年記念式典を挙行(於:岡山市民会館)。
創立130周年記念演奏会(9/26、岡山シンフォニーホール)を開催。
本校初の校史『岡山朝日高等学校の生い立ち、戦前篇』刊行。
創立130年記念式典
岡山大学とタイアップして「総合的な学習の時間」を実施。〔以後、「岡山大学訪問」として1年生行事として定着した〕
自己推薦による入学者選抜実施。〔この方式による選抜は平成25年度で終了した〕
新校舎北棟(管理・教室棟)完成。
新校舎南棟(特別教室棟)、図書館棟完成。
新校舎を鳥瞰する(撮影:平成19年5月)
新校舎に移転。
使用する机や椅子を自ら新教室へ運んだ
キャリア教育講演会を始める。〔以後、同窓会の協力を得て毎年開催〕
板谷正夫、校長に就任。
岡山県教育センター、吉備中央町へ移転。
この年度より、「ピアサポート」の取り組みを本格化させる
旧本館(階段校舎)の管理棟部分を撤去。
地蔵川周辺等に六高菊桜を移植。
第1回「ALL ABOUT ASAHI」(授業公開日)開催。
特別教室へのエアコン設置完了。
合併教室(旧家事教室)、サーキットトレーニング施設を撤去。
旧本館(階段校舎)の教室棟部分の解体完了。
旧本館がなくなった校地・校舎(撮影:平成21年4月)
平井信雄、校長に就任。
難波博之さん、第40回国際物理オリンピック・メキシコ大会で銀メダルを獲得。
旧岡山県教育センターが岡山県教育庁指導課から本校に所属替えとなる。
弓道部井上泰夫さん、第64回トキめき新潟国民体育大会の弓道少年男子遠的で(岡山県選抜チーム)優勝。
1年生の定員が360名となる。
香川県立高松高等学校(旧高松一中)と鳥取県立鳥取西高等学校(旧鳥取一中)との野球部定期戦を開始(於岡山県営球場)。
特別教室棟(東半部分)大規模改造工事完成。
正門、校地を取り巻く石積み、東書庫・西書庫、柔道場が「登録有形文化財(建造物)」に登録される。
左から、正門、西書庫・東書庫、柔道場
同窓会の支援を受け、植栽を撤去するなど正門前面両脇を整備。
郵便局株式会社中国支社よりオリジナルフレーム切手「岡山朝日高等学校建造物登録有形文化財登録記念」が発売される。〔高校名を冠するオリジナルフレーム切手の発行は全国初。2度増刷されて計3,000部発行、完売した〕
兵庫県立神戸高等学校(旧神戸一中)とのサッカー部定期戦開始(於本校グラウンド)。
囲碁将棋部女子、「第47回全国高等学校将棋選手権大会」で団体優勝。〔朝日高初の団体による全国制覇〕
講堂(大講堂)を原則使用中止とする。
特別教室棟(西部分)大規模改造工事完成、特別教室棟の大規模改造工事が終了。
大規模改造が完了した特別教室棟(撮影:平成24年1月)
「第5回全国高等学校英語スピーチコンテスト」で、宮原綾さん(1年)が文部科学大臣賞を受賞し優勝。
特別教室棟の北西隅に庭園を整備。
杉本尚平、校長に就任。
グローバル人材育成プログラムが始める。〔以後、関連するさまざまな取組が現在も継続中〕
空手道部道場老朽化により使用中止。〔この建物は旧制六高の図書館の一部を移築したもの〕
特別教室棟2階に美術品展示・収蔵室を整備。
イギリス・サイエンスカレッジ授業体験プログラムを初めて実施(~22)。
研修ホール、創立百周年記念館の耐震補強工事完成。
体育館にスライディングステージを設置。
空手道部道場解体。
資源ゴミ置場(当初は購買)を解体。
創立140周年記念式典を岡山市民会館で挙行。
創立140周年記念演奏会を開催(12/1、岡山シンフォニーホール)。
創立140周年記念美術展を開催(12/16~21、岡山県天神山文化プラザ)。
『校史資料編』刊行開始。
同窓会の創立140周年記念事業として『岡山朝日高等学校所蔵作品集』出版。
創立140周年記念式典
創立140周年記念美術展
同窓会館(創立90周年記念館)の耐震補強工事完成。同窓会の創立140周年記念事業として同2階教室内装やエアコンも同時に整備される。
同窓会の創立140周年記念事業として正門門扉・門柱灯が更新される。〔正門門扉贈呈式を開催(翌年1/10)、この改修で正門廻りは大正後半期の旧制六高の趣を取り戻した〕
新しくなった正門門扉。大正後半期の旧六高時代の趣を取り戻した。
中庭(北棟と図書館棟との間)のインターロッキングブロック舗装完成。
田中広矛、校長に就任。
正門門柱の門標を新たに揮毫した。〔現校地で7枚目の門標〕
「第9回全国高等学校英語スピーチコンテスト」で、プラダン シュレヤスさん(1年)が文部科学大臣賞を受賞し優勝。
全普通教室にプロジェクターを設置。
守田脩究さん、第49回国際化学オリンピック・タイ大会で銀メダルを獲得。
ダンス部、アメリカンダンスドリルチーム インターナショナルチャンピオンシップ2018(国際大会、アメリカ・ラスベガス)でPOM部門および総合で第2位を獲得。
大倉拓真さん、第49回国際物理オリンピック・ポルトガル大会で金メダルを獲得。〔日本人で唯一、岡山県においても初の獲得〕
ダンス部、アメリカンダンスドリルチーム インターナショナルチャンピオンシップ2019(国際大会、アメリカ・ラスベガス)でPOM部門で第1位、総合で第4位を獲得。
竹田義宣、校長に就任。
岡山県立高等学校教育体制整備実施計画に基づき、高等学校魅力化推進事業のリーディングモデルの研究指定校となる。
旧岡山県教育センターの諸建物、第六高等学校が建設したプールを解体。
新型コロナウィルス感染症対策のため臨時休業。
新型コロナウィルス感染症対策のため再度の臨時休業。
授業日数確保のため、第1学期終業式を8月7日に、第2学期始業式を8月17日に実施。
岡山県教育センターおよびプール跡地をグラウンドとして使用開始。
平田善久、校長に就任。
令和4年度入学生から普通科の類型として「学術探究系」を導入。
二女・二女高の年譜
岡山県第二岡山高等女学校、文部省告示第五九号を以て開校を許可せられ、岡山県女子師範学校校長菅原信治が校長事務取扱を命じられた。
岡山県令第一〇号を以て学則制定。
菅原信治、校長を兼務。
入学式を挙行。
校旗推戴式。
開校式を挙行し、この日を開校記念日とした。
二女の校名を加えて二号に書かれた門標。南門の奥にははん(さんずいに半)池と正門が写っている。南門、正門、講堂はいずれも戦災で焼失。
菅原校長、離任。黒金厚美、女子師範学校長と兼務の校長に就任。
5年生、初の修学旅行を実施(九州方面、~8/1)。〔戦前の複数泊に及ぶ修学旅行は最初で最後となった〕
研究科を付設。
師範学校女子部部長坂元彦太郎、兼務の校長に就任。
学区制と岡山一女との綜合考査制を導入した入試を実施(20年も同じ)。
5年生、中国航機株式会社に出動。
4年生、住友通信工業株式会社岡山製造所に出動。
3年生、倉敷航空化工株式会社岡山航空機製作所に出動。
3年生、住友通信に出動(入所式)。
岡山空襲により、校舎焼失。焼跡・中出石公会堂・村上教諭宅等で授業。
教育会館の一部を借用して授業。
坂元校長は離任し、北村正、校長事務取扱となる。これにより二女は岡山師範学校女子部と全く分離した。
城北女子商業学校(現創志学園高等学校)の一部を借用して授業。
野崎正衛、校長に就任。
初めて1クラス以上の150名を募集し、入試を実施(~4/3)。
大山登山を実施(~7/29)。〔大山登山が復活した〕
焼跡に仮校舎の一部(松舎・竹舎)完成。
焼け跡に兵舎を移築して建てられた校舎。校舎の周りの整地はまだ済んでいない。
松舎・竹舎の南側に新校舎完成。
新制中学の発足により、新3・2年生は、第二岡山高等女学校併設中学校の生徒となった。
5年生、奈良・京都方面へ修学旅行を実施。〔戦後初の修学旅行〕
もとの校地で体育祭も開催された(10/26)
学制改革により、岡山県立岡山第二女子高等学校と改称し、5年修了者のうち卒業を希望しないものは新制高校3年生、併中2年修了者は岡山第二女子高等学校併設中学校の3年生となった。
家庭教室完成。
森嘉吉、校長に就任。
県下一斉の入試で、1クラス分の生徒の入学を許した。
岡山県立岡山第一高等学校と合併して岡山県立岡山朝日高等学校となり、中山下校舎と称した。森校長は離任。北村正が中山下校舎の部長となった。
校名の変遷について
温知学校予科
岡山県師範学校予科(許可:3月5日)
岡山県師範学校変則中学科(許可:9月14日)
教則変更が明治12年(1879)1月11日に認められて岡山師範学校変則中学科は変則中学校となったが、校名変更の時期はよくわからない。
岡山県中学校
岡山県岡山学校中学科
岡山県尋常中学校
岡山県岡山尋常中学校
岡山県岡山中学校
岡山県立岡山中学校
岡山県岡山中学校
岡山県第一岡山中学校
岡山県立岡山第一高等学校
岡山県立岡山朝日高等学校
岡山県第二岡山高等女学校
岡山県立岡山第二女子高等学校
岡山県立岡山朝日高等学校