『相談課便り』第46号

「不思議な光景」

小網 晴男

いまでは、この姿が当たり前なのであろうか? 先日、岡山市のレストランで見かけた一家団欒の光景。私達が、互いの家族や職場のことを話しながら食事をしていたとき、4人家族が隣の席に座った。騒がしくなるかなと思いながら食事を続けていたが、少しも話し声が聞こえてこない。食事を楽しみに来たのではないのか、悪いと知りながら隣の席に眼をやると、それぞれの操作するスマートホンの画面に見入る4人の姿がそこにあった。あたかも、家族と楽しく話し食事をするより重要な何かが画面に存在するかのように。4人の個人がそれぞれの世界を携帯し、同じ席に着いた。そして、4人の携帯したそれぞれの世界は決して交差することは無いのだろうと感じながら、私達は店をあとにした。

「Beの自信」

島村 精二

「Doの自信」と「Beの自信」という言葉を心理カウンセリングの書で以前目にした。何か「する」ことで成果が上がり、評価を得ることによって感じられるのが「Doの自信」、それに対して、「あり方」、すなわち「このことを大切にして生きている」という生きる姿勢そのものを大切にし、その自分に対して得られる肯定感や安心感が「Beの自信」と定義される。私たちは日常の生活の中で、何か成果をあげるために必死になって努力をする。しかし、長い人生の中で常に「成果」を上げ続けるのは、まず不可能で、必ず「失敗」や「挫折」をどこかで味わうことになる。「Doの自信」のみを積み重ねることはできない。だが、目の前の難題に勇気をもって向き合い、自分のできる最大限の努力を最後までやり抜くことで得られた「Beの自信」は成果の有無に関わらず私たちの中に生き続けるし、それを基盤に「失敗」や「挫折」からも私たちは学ぶことができる。

3年生諸君は今受験という試練の中でもがき苦しんでいる最中であろう。志望校合格という「成果」、これはもちろん何よりも大切なものであるが、同時に、高い目標に果敢に挑戦し、自分の目の前のことに誠実に取り組み、最後までやり抜くことから得られるものも、それに劣らず、場合によってはそれ以上に君たちにとって人生の大きな財産となると私は考えているし、そのことを私は多くの君たちの先輩から教えてもらった。

ある楠友館の生徒に対して閉講式の日に、「楠友館での1年間は君にとって回り道だったか?」と尋ねたことがあった。その時、その生徒は「浪人したことが自分にとってプラスだったかマイナスだったかはわかりませんが、この楠友館で過ごした一年は自分の人生にとって大切な時間だったことは間違いないと思います。」と答えた。彼女は朝日高校(+楠友館)で培った「Beの自信」を礎に東京大学で今「建築」と格闘している。

また最近、受験勉強という自己中心の目標に向かっているはずなのに、他者を思いやる立居振舞のできる生徒が増えてきていることを私は日々感じている。おそらく、その人たちは受験という試練の中での必死の努力の中で、本人も気づかないうちに「Beの自信」を少しずつ形成し、そして人間としても成長を遂げつつあるのであろう。そのような人たちを私たちは「朝日高生」と呼ぶ。

「未来を変える瞬間の連続」

中村 崇

10数年前のとある日、就職活動中であった私は久しぶりに岡山に帰省し、ちょっとした気分転換に趣味と実益を兼ねて本屋の化学のコーナーに立ち寄った。そこには、先客として見たことのある年配の方がいた。「誰だったかな…?あっ…。」その方は教育実習でお世話になったときの母校の高校の校長先生だった。一度か二度、お話しさせてもらっただけであったが、教科が理科の化学ということで声をかけてくださったこともあり、なんとなく記憶の片隅に残っていた。「あいさつしようかな。でも、一年前に来た教育実習生に声をかけられても困るかな。どうしようかな…。」悩んだ末にお世話になったし、あいさつすることにした。

「校長先生ですよね。一年前、教育実習でお世話になった化学の中村といいます。あの時はお世話になりました。」「…。おお。元気にしているかな。どうしたの。」「就職活動で岡山に帰省していて、たまたま校長先生をお見かけしたので…」「そうかそうか、就職活動はどうなの。」「一社最終面接まで行っているので、そこに決まればいいなと思っています。」「そうか。教員採用試験は受けないの。」「教員は魅力的な職業だと思いますが、自分はなれるほどではないかと…」「そうか、また興味があるようなら相談においで。」

なんとなく教員という選択肢が生まれた。そして、ふと気づくと、朝日高校で教壇に立っている。あの時、たまたま、気分転換に本屋に立ち寄らなければ、あの時、とりあえずでもあいさつしなければ…、今の自分はない。いろいろな偶然が重なって、今の自分がある。案外、ちょっとしたことなのかもしれない。これから先、幾度となく出会う自分の未来を変える瞬間、今、目の前にあるその瞬間を大切に。

「街中のそれぞれの『物語』のなかで」

大塚 崇史

NHKの「ドキュメント72時間」という番組が好きで、よく観る。毎回、街中のあるひとつの場所に三日間カメラを据え、そこを行き交う人々を取材し、様々な人間模様を定点観測するというもの。「日本最北端のバス停」「大病院の小さなコンビニ」「秋田・真冬の自販機の前で」など、毎回、興味を誘う表題がつけられている。三日間、そこを行き交う「普通の」人々を撮影し、話を聞くだけ。ただそれだけのことなのに、なぜか、妙に、惹きつけられる。

結局、人間というものの面白さなのだなあ、と思う。普段生活していれば、互いに何ら意識することもなく、行き交う人々、その一人ひとりにそれぞれが背負っている「事情」があり、そこに「物語」があるという、考えてみれば当たり前のことを、このドキュメントは教えてくれる。例えば、浅草の花やしきを扱った「浅草大人のジェットコースター」で、北海道からやってきていた夫婦。旦那さんは自動車販売の52歳で、少し前にステージⅣのがんが見つかり、仕事を休んで抗がん剤治療を続けている。やっと症状が落ち着いたとき、なぜかこの遊園地が頭に浮かんだという。

人はどうやっても自分の視点からしか世界を切り取ることができない。自分自身の「事情」を基準にして物事を考えてしまいがちであり、自分の「物語」のなかで生きている。だからすれ違いが起こる。「自分はこんなに苦しいのに、どうしてわかってくれないのか」「なぜ自分ばかり。あの人はあんなに楽しそうなのに、不公平だ」…そんなことを、私たちはつい、考えてしまうことがある。そうしたほんの些細なすれ違いが重なり、いつしか互いにぶつかりあって、人を傷つけてしまったり、関係を壊してしまったり、時には取り返しの付かない悲劇を生み出すこともある。

大切なことは、すべての人に等しく、それぞれの「事情」があるということに思いをいたすということ、他者の「物語」に対する想像力を持っているということ。ごく当たり前のことではあるけれど、私たちが日常のなかで、つい見落としてしまいがちなことではないかと思う。このドキュメントが映し出す様々な人間模様は、自分だけの「物語」にとらわれて生きてしまいがちな私たちに、この当たり前の事実を教えてくれる。

番組のテーマ曲である松崎ナオさんの「川べりの家」がまた良い。シンプルだけれど穏やかで、流れる川のようなメロディが、72時間の人間模様の余韻に浸らせてくれる。

「川のせせらぎが聞こえる家を借りて耳をすまし
 その静けさや激しさを覚えてゆく
 歌は水に溶けてゆき そこだけ水色
 幸せを守るのではなく 分けてあげる」

(松崎ナオ「川べりの家」より)

今週もまた、それぞれの人々の「物語」に耳をすませ、幸せを分けてもらうことにしよう。

お知らせ

去る6月20日(月)に「ピア・サポート集中トレーニング①」を実施しました。 コミュニケ-ション・スキル演習やエゴグラムによる自己理解などを昨年とは趣向をかえた新しいプログラムで「話の聴き方」や「エゴグラムを使った自己理解」などを演習形式で学びました。

引き続き「ピア・サポート集中トレーニング②」を8月8日(月)に企画してい ます。この日は外部講師の先生をお招きしており、ピア・サポートに関するいくつかのな演習やリラクセーションの演習を予定しています。トレーニング①に参加していなくてもかまいません。興味のある生徒は、ぜひどうぞ。内容と詳細な日程は、保健室または相談室まで。