『相談課便り』第6号
『相談課便り』第6号
<平成18年7月発行>
あきらめるということ
一色節二
“Never give up”
「あきらめるな」という言葉は、これまで何度となく先生から言われ、自らも言い聞かせてきた言葉ではないでしょうか。私も言った記憶があります。教師にとっては、条件反射というか、ほとんど職業病のように使う台詞です。
本来「あきらめる」という言葉は、「明らかに見る」(ものごとを正しく認識する)という意ですが、人はそう簡単にものごとを明らかに見ることはできません。人には煩悩つまり執着心があるからです。「明らかに見る」ことができるように、古来人々はさまざまな行を行ってきましたが、成功しえたかどうかは定かでありません。自らに執着することなくものごとを明らかに見ることを仏教では「悟り」といい、明らかに見ることのできた人を「目覚めたるもの=仏陀」とよんだのです。
したがって、「あきらめるな」という言葉は、「正しくものを見るな」「自己に執着し、煩悩のままに生きよ」と言っているようなものです。もっとも、「あきらめよ」といわれても、人はなかなかあきらめられるものではありません。
長い間日本人は、執着心を我執として否定的にとらえ、これをどうやって削ぎ落とすかということに腐心してきました。無我とか無私の精神とかが説かれてきたのはそのためです。しかし近代になると、執着心を新しい力を生み出すものとして、むしろ肯定的にとらえるようになりました。
権利や個人主義など、欧米社会の価値を普遍的価値として積極的に取り入れる際、それらの価値の源にあるものとして、「個への執着」を感じ取っていたのではないかと思います。実際、人間は個に執着することによって、多くのことを実現してきました。人間のさまざまな欲求は権利として確立され、さまざまな欲望も市場経済と消費社会のなかで商品という形をとって充足されてきました。
現在、個人の尊厳という価値の大切さを疑うものはいないでしょうが、これを私の尊厳と考え、自己を絶対視する人が増えてきているように思います。若者は陶酔したように「オンリーワン、世界にひとつだけの花」だとか歌うようになり、かつては「自分以外、皆師」と思っているものも多かったが、最近では「自分以外、皆バカ」だと思っている若者も現れているようです。自己を中心にして世界は動くと、本気で考えている人もいるのではないでしょうか。天動説の復活というべきでしょうか。自己本位や自己愛は肥大化すればグロテスクであり、かえってそれが悩みや苦しみの源泉になることもあるでしょう。
ともかくも、社会や人間の心理の表層において、個人主義はすっかり定着したように見えます。しかし、深層においては必ずしもそう言い切れません。日本人には長く、執着心を我執として否定的にとらえ、「個」よりも「場」を重視する心性を持ち、「自ら」を「みずから」ではなく「おのずから」と読んできた伝統があるからです。身にまとう着物は変わっても、中身はほとんど変わっていないように、現象的にはどんどん変わっていきながら、人間の行動様式や心性は、案外変わらないのかもしれません。
それにしても、変化の読めない、生きづらい時代になってきました。人間関係のさまざまな齟齬やトラブル、不登校やひきこもり、不安や神経症などの背景には、変わりゆくものと変わらないもの、新旧の価値や文化の相違とその読み違えがあるのではないかと、私は思っています。
先日、『未完の夢 無言館展 -戦没画学生が遺した愛と絵-』という展覧会に出かけてきました。突然これまでの生活を断念させられ、生死をゆだねる戦場に出てゆかねばならなくなった画学生が最後に描き遺した絵は、すべて具象画でした。妻や母あるいは身近な人たちを描いたものと、身のまわりの草花や自分の部屋から見える家並みや里山などふるさとの自然を描いたものに尽きていました。すべてを諦めなければならなくなって、なお諦めきれないものが何であるか、よくわかりました。人が最後まで執着するもの、つまり最も大切に考えるものが何であるか、よくわかりました。
そのことさえ押さえておけば、「あきらめる」ことができなくても、人が生きることは難しいことではないように思われます。道を踏み外すこともないでしょう。
さまざまな輝き-頑張る生徒たちのこと-
大西由美
太陽の光がまぶしい季節です。夜明けとともに輝き始める朝日。昇る朝日の光は、一日の汚れを帯びていない生まれたての爽やかさを感じさせてくれるもの。私は、そんな夜明けの空を見るのが好きで、東の空があおみ始める頃から、ぼんやり眺めていることがあります。早暁の美しい空に、勇気づけられる感じがするからでしょうか……。
さて、この一学期、私は、頑張る生徒たちの姿をたくさん目にしました。一生懸命何かに打ち込む彼らの姿には、早暁の朝日がくれる勇気と同じような、力を与えられる気がします。
5月下旬。中国大会予選で泳ぐ生徒
彼はレースの前に、飛び込み台の後ろで計時係をしている私に向かって、小さく右手でガッツポーズをしました。それから真っ直ぐ前を見て口をキュッと結んで、飛び込み台に上がりました。鍛え上げられた逆三角形の水泳選手らしい体型。その背中に、彼が今日まで積み上げてきた練習の苦しさが、筋肉の隆起になって現れているようでした。プールのない朝日で、水泳と学業を両立させることは、並大抵の努力ではありません。日々の授業で、真剣に頑張っている彼を知っているだけに、彼が飛び込むその瞬間、制服の下に隠れて級友にも知られることのなかった苦しい努力が、美しい水しぶきとなって報われたようで、ぞくっとするような感動を覚えました。歓声の中、懸命に泳ぐ姿は、輝く映像として私の心に残っています。ゴールする時、きっと、苦しいことから逃げないでやり抜いてきた自分に、誇らしさと満足感を感じたことでしょう。この、彼だけでなく、3年生まで泳ぎ切ったあと5人の泳者たちにも、拍手を送りたい。立派でした。
6月上旬。インターハイ予選で戦う剣道部
雨の日も風の日も休まず稽古する剣道部。
いつも礼儀正しく挨拶できる剣道部。
爽やかな朝日高生の代表のような剣道部。
(これはちょっと言い過ぎ?!)
その日、綺麗に頭を丸めたひとりの剣士が目を引きました。どんなに辛いときも歯をくいしばって稽古を積んできた剣道部員。全員がそれぞれに真剣な思いを胸に試合場に臨んでいる。その気迫がどの顔からも伺えました。その中、授業で会った時には長かった髪を、さっぱり刈り上げた彼の姿を目にした瞬間、試合に賭ける並々ならぬ決意に気圧されたようになって、私は背筋がピンと伸びました。試合での彼は、迷うことなく自分の力の全てを集中して、思いっきり気合いを込めて、真っ直ぐに相手に向かっていきます。その戦いぶりは、剣道に賭ける情熱と、純粋な青春の思いの象徴のようでした。まっすぐな輝かしい姿に、忘れていた何か熱いものを呼び覚まされたような気がして、とても感動的でした。これは、この日まで、チームのメンバーとしてともに戦ってきた生徒たち、サポートしてきた部員たちみんなで創った感動だったのではないでしょうか。勝っても負けても相手に感謝して試合場から出る剣士たちの礼儀正しい姿は、爽やかで印象的でした。
6月下旬。芸文館に舞うダンス部
現代社会を鋭く見る目を通して、毎年テーマ性のある創作ダンスに取り組むダンス部の皆さん。高校生らしく爽やかで素直なダンスは、岡山県の中でも確固たる位置を占めつつあります。今年、3年生のいない、不安な状況の中で、ゼロから手作りで作品を仕上げることは、大変なことだったでしょう。彼女たちが、芸文館の舞台に立ち、曲とともに踊り始めた瞬間、私は総毛立つ思いがしました。美しく揃った手足の動き、豊かな表情。他のどの学校にも負けない素晴らしいダンス。この舞台に立つために、彼女たちが経験した練習の苦しさ、体の痛み、思うように表現できないつらさ、悔しさ……そんなものが全部、整然と優美な踊りに姿を変えたようでした。舞台の上から大きな波動となって私に迫って来る彼女たちのひたむきな思い…。ほんとうに素敵な高校生らしい舞台でした。
この他にも、活躍する生徒たちはたくさんいます。運動部、文化部、生徒会執行部etc…
一生懸命取り組む全ての生徒に、それぞれの輝きがあります。青春のエネルギーに溢れた彼らの活躍が、みんなに勇気を与えている。朝日の生徒たちは、それぞれが一生懸命で、それぞれがみんなの刺激になり、互いに力になっているのです。
さて、もうひとつ輝く生徒のこと
それは、悩み・苦しみを抱えながら、必死に自分を励まし、登校し、勉強しようと努めている生徒たち。彼らが抱えている問題は、友人関係のこと、家族のこと、部活動のこと、自分自身のこと、進路のこと…などさまざま。中には、私のところに相談に来て、涙を流しながら苦しい胸の内を語ってくれた生徒もいます。
相談の仕事をしていると、思いもよらない生徒から思いもよらない悩みを打ち明けられることがあります。半分大人の彼らは、ある程度世間体とか見栄とかいったものを持っているので、そのことで余計苦しんでいる。誰にも言えないまま、心に貯めた思いを、人に話すのは、それ自体が苦痛かもしれません。しかし、話しに来てくれたのだから、その勇気にありがとう、という気持ちで聞くことにしています。
彼らの多くは、悩んでいる自分を愚かでだめな人間だと卑下し、自分にたくさん×印を付けてしまっています。友達もいて、勉強もそこそこできて、何より健康で明るく育っているのだから、○をつけることがたくさんあると見える生徒でも、自己評価が低く、苦しんでいることもあります。真面目で、正直で、物事を真摯に考える生徒ほど、特に自分に対する悩みは深くなるようです。
彼らは、弱いのでしょうか。精神がひ弱だから悩むのだ、というのは、ある意味真実かもしれませんが、だからといって、傷つき悩むのは弱い人間だ、打たれ弱いのは本人の責任だ、と決めつけてしまうのは、やはり間違っていると思います。それは、勝者の論理であって、万人が勝者である世の中はあり得ないからです。勝ち負けにたとえるのはよくないですが…。
常に、自己反省し、自分の弱さに気づきながら、自分はこれで良いのだろうか、と懐疑し続ける中から、本当の強さは生まれてくるのではないかと私は考えます。いま、青春の中で、理不尽に傷ついた心を抱えながら、それでも苦しいことから目を背けないで、必死に進もうとしている…そんな生徒たちもまた、輝く光であると私には感じられます。
彼らの話を聞きながら、あまり人生に懐疑することなく、楽しく過ごした自分の高校時代を思い返し、こんなに若いのに、こんなに苦しんでいる…と同情ではなく、自己反省させられる。しかし、弱々しいかもしれないけれど、必死に自分らしく光ろうとしている彼らにまた、勇気をもらってもいます。負けないで…みんな!!
先日、話に来てくれたある運動部の生徒が、永遠に悩みの中から抜け出せないような感覚を持っていたので、私の好きな言葉を教えてあげました。
夜は必ず朝になる。
やまない雨はない。
これは、小泉吉宏さんの「ブッタとシッタカブッタ」という本の中にあった言葉です。8年くらい前に知った言葉なのですが、辛いときや苦しいときには、この言葉を思い出して、きっといつか…と希望を棄てないようにしています。今も。
また、新しい朝…東の空に太陽が輝きながら昇っていきます。「朝日は昇る」。そう、輝く彼らに負けない、輝く自分であるように、私自身も心がけたいと思っています。