『相談課便り』第8号
『相談課便り』第8号
茶道との出会い
松本雅子
今年度縁あって茶道部の顧問になった。といっても実際の指導は嘱託の先生がしてくださるので、私は練習の様子を見たり先生との連絡調整をしたりといった役だ。学生時代は専ら体育会系のサークルに所属しており、茶道華道というものは何かしら敷居の高い文化というイメージしかなかった。しかしいわゆる“お年頃”になり、たしなみの一つもいるだろうとほんの短期間お稽古に通ったことがある。茶道とはその時以来の十数年ぶりの付き合いである。
先日、茶道の先生のお点前(おてまえ)を見る機会があった。やはりその道に精通された方の所作は凛として美しく、とても洗練されたものであった。ほどよい緊張感と何とも表現しがたい心地よさ、そのひとときに仕事も忘れ考え事もストップして、そのお点前に見入ってしまった。静寂に包まれた空間の中で、かすかに響くお湯の音、無駄のない美しい動作、お抹茶の香り、思わず目を閉じて深呼吸すると、心の中がすうっと楽になった。
茶道から出た言葉に「一期一会」という心得があるが、深い含蓄のある人生の教えでもある。茶道の世界では、たとえ亭主(もてなす側)とお客(もてなされる側)が何度顔を合わせたとしても、その時の季節や天気、お茶の道具、お庭の様子など何一つ同じであることはないし、この時間がふたたびかえることはないので、もてなす側はその一度の会合を楽しんでもらえるよう全身全霊相手を思いやる。たとえば朝日祭のお茶席でもそうだ。その日のテーマを決め、お軸、お茶花、お道具などを丁寧に選ぶ。「よくお出でくださいました。今日の出会いに感謝しこの時間をどうぞ楽しんでいってください。」という思いでお点前をする。お客に不愉快な思いをさせまいと全てのことに気を配り、礼儀を重んじる。先生の丁寧で折り目正しい、それでいて温かみのあるお点前を見て、私は「一期一会」という言葉を思い出していた。
「一期一会~その出会いを大切にする」という意味では、保健室に来室する生徒との関わりも「一期一会」である。保健室には毎日大勢の生徒がやってくるが、どんな訴えで来ているのか、何を求めているのか、まずは相手の表情を目で見て、心で感じることにしている。そして相手のその時その時の気持ちをなるべく思いやりながら、この保健室での時間の共有が意味のあるものとなることを願っている。(たいていは気持ちに寄り添い温かく接しているが、時に口うるさい指導あり・・これも意味のある時間と思ってください。)
夜、子供を寝かせた後、久々にお抹茶を点ててみた。静かでとてもくつろげるひとときがひろがった。「一期一会~その出会いを大切にする」……「今日のあの子、ちょっと気になるけど大丈夫かな。」ふうっと息をつきながら保健室での出会いを思い返していた。
明るくて開放的な保健室になりました
新校舎の保健室は1階東側に位置し、相談室と進路指導室の間にあります。まだ一度も入ったことのない人もいることでしょう。サーモンピンクとグリーンを基調に明るく広々とした印象になるよう工夫しました。相談室へつながるドアもあり、必要があればそこから相談室へ行くことができます。
保健室で人気のあるアイテムは苺のクッション。悩み事のあるとき、おなかの痛いときに抱えていると落ち着くと評判です。このたびモップのような不思議なクッションも仲間入りしました。(卒業生からの贈り物です。)
観葉植物もたくさん置くようにしています。国語科の曽根先生にいただいた名前のわからない立派な観葉植物。これは旧校舎時代、職員室にあった瀕死の鉢を曽根先生と教務の佐藤先生のお二人で見事に復活させたものだそうです。その愛情を絶やさぬよう大切に育てています。また、体育の西原先生宅からお嫁入りしてきたカポックさん。これはとても成長が早く一ヶ月で20センチくらい伸びています。驚きは、たぶんトックリランといわれるタマネギみたいな変な観葉植物。あまり見栄えはしないのですが、子沢山で次々球根をつくっています。ネットで調べたところ、60年に一度しか花が咲かないと書いてあったので、開花はあきらめていたのですが、新校舎移転がよほど嬉しかったのでしょうか、現在つぼみがついています。その他、エサをやりすぎてお腹が出ているメタボリックメダカもいます。(いま、ダイエット中です。)
温かみがあって、なんとなく元気が取り戻せる場所になれば、と思っています。
禍福はあざなえる縄のごとし
永田宏子
3月も下旬となり、春の暖かな日差しが心地よい。この冬は本当に過ごしやすかった。わが家の光熱費は例年になく安く上がり、また毎年何度となく引いてしまう風邪も、今シーズンはノロウイルスにやられた一度で済んだ。まことに結構なことだ。
さて、みなさんはそれぞれの1年間を終え、心浮き立つ春休みかもしれない。年末年始にかけて文理選択やコース選択に悩んだ人もいただろうが、すっきり決心がついていることと思う。高校時代の私も、すっきり「文系だ」と心を決めて3年生に進級した(その当時は文理決定が遅かった)。あとで大泣きすることも知らずに。
私が小学生のころ、『科学と学習』という子ども向けの雑誌があった。いまでもあるのかしら? 愛読していた私は、その中に書かれていたゴビ砂漠で恐竜の卵の化石を発掘する話に、今でいうところの「はまって」しまい、子どもによくある恐竜大好き少女時代を過ごした。もとより本好きであった私は、中学に進学後中学校の図書館の本(百科事典を除く)を全部読むことを目標に、せっせと図書館通いをした。その中で古生物学がらみで手に取った一冊に人間の進化に関わる本があった。これがひじょうに面白い。とくにサルとヒトとをつなぐ「ミッシングリンク」にあたる化石がまだ見つかっていない、という下りに心惹かれたのであった。
高校に進学し2年生で世界史を学ぶことになった私は、教科書を開いて「おおっ!」と思わず声を出した。最初のところに、人類の進化の話が載っているではないか。「これこれ、これだ」と思った。確か夏ごろ文理選択を決定しなければならず、世界史の先生のところに「こんな勉強がしたいんです」と相談に行った。先生は「こりゃ、考古学じゃろう。ほんなら文学部じゃな」とおっしゃった。いまでも明るくそう言った先生の顔を思い出す。「そうですか、なら文系ですね。」数学がからっきしダメだった私には渡りに船だ。決定!
3年に進級した。生物は生物Ⅱだ。そのころは文系の生徒でも生物Ⅱを学習したのだ。教科書を開いて愕然とした。なんと、そこにも人類の進化の話が載っているではないか。慌てて生物の先生のところに行った。「せ、先生、人類の進化は生物で勉強するんですか?」「あったりまえじゃ。自然人類学っていうんよ。理学部の生物じゃ。」「理学部って、理系……」
それから後の私の落ち込みは、これまでの人生を振り返ってみても2番目の大きなものだった。それでも往生際悪く、文系で自然人類学ができるところはないか必死で探したが、あるわけがない。というわけで、目標を失った私の大学受験はまことにやる気のないものになってしまった。
法律にも経済にも興味がなかったので、大学はとりあえず文学部に進むことにした。合格発表を見に行ったが、張り出してある名前が毛筆で丁寧に縦書きしてあったことが印象に残っている。隣で感激している祖母を横目に、やけにさめた気持ちだった。これから4年間どうしよう。
大学では、1・2年生は一般教養課程で、文系・理系かかわりなくいろんな講義をとることができる。先生も、まあ言ってしまえば好き放題な授業をしていて、専門が物理なのに立原道造を語った人もいた。彼が立原道造に心酔していることはよくわかったが、こちらとしては物理の話をして欲しかった。
そんな教養課程の講座に理系の学生向けの「自然人類学」があった。私のアンテナは即座に「ビビビ」と反応。こんなところで出会えるなんて!先生は他大学からお越しになっていた非常勤の先生だった。諦めて進学し、やる気を失っていた私の大学生活に一筋の光が差した気がした。1年間かぶりつきで授業を聞いた。きっと目がハート型になっていたに違いない。でも、そんな幸せな時間は1年だけだった。
3年からは専門課程。東洋史専攻に入ったものの、どうしても人類学が忘れられない。どうにかして東洋史にいながら人類学をやることはできないか……。卒論のテーマを提出する期限が迫り、追いつめられた私は一世一代の勝負に出た(大げさ)。一般教養の時にお越しになっていた自然人類学の先生に長い長い手紙を書いたのだ。思い出しても恥ずかしい。でも、先生からお電話をいただいたときの天にも昇る心地といったら!
「一度来なさい」といわれて先生を訪ねると、壁3面の床から天井まで何百と頭蓋骨が並んだ部屋へ通された。壮観である。文学部史学科東洋史専攻に在籍しながら自然人類学的な視点で卒論を書きたいという変わった学生の相談に真剣に耳を傾けてくださった先生は、ある村から出土した人骨のデータを示された。「これの分析をしてはどうか。中国の新石器時代のものなので東洋史でもなんとかなるだろう」とのこと。ヤッター。あとは、東洋史の担当教授の説得だ。
担当教授には渋い顔をされたが、今までのいきさつを涙ながらに語り、なんとか卒論のテーマとするお許しを得た。多変量解析という、文系の私には???の手法を使い、電卓を叩いて計算、計算、また計算。パソコンのない時代、それしか方法がなかったのだ。大変だったが勉強は楽しく苦にはならなかった。
その間、紹介された愛知県犬山市のモンキーセンターや京都大学霊長類研究所を訪問したりした。面白かったのは、案内してくださったW助教授の話だ。私が紆余曲折の末ここまでなんとかたどり着いた話をすると、W先生はため息をつきながら「僕は本当は天文をやりたかったんだ。でも、天文は希望者が多くて成績順であぶれてしまって、人類学になっちゃったんだよなー」とおっしゃる。人それぞれ思うようにはいかないようだ。あと、もう時効だと思うが、W先生の手引きで霊長研の柵の破れ目からお隣のモンキーセンターにタダで入ってしまった。ごめんなさい。
そうこうしながらなんとか卒論を仕上げた。卒論提出後の口頭試問ではずらりと並んだ先生のお一人から「永田さん、これは歴史ではありません」といわれてしまったが、そんなことは覚悟の上だ。よくあの論文を東洋史の卒論として通してくださったと頭が下がる。人類学の基礎がないので内容はお粗末きわまりないものだったが、自分なりの達成感はあった。よほど大学院へ進学してきちんと勉強しようと思ったが、文学部から理学部の大学院へ進学することはやはり難しい。なんたって、院試に数Ⅲがあるんだもん。数学音痴の私には手も足も出ない。
「ケニアに掘りに行かないか?」というお誘いもいただいたが、家庭の事情でそれもかなわなかった。行っていれば違う将来があったのかもしれない。その調査隊は950万年前の化石を発見したのだから。結局、人類学の夢はそこで断念することになった。しかし卒論を書いている間に、限られた出土人骨の形態分析が個体差をこえてどの程度一般化できるのか疑問に思ったことや、当時DNA分析が現れはじめて形態分析そのものの限界を感じたこともあり、かつてのように後ろ髪を引かれることはなかった。
あとにはすがすがしい満足感が残った。高校時代にいったんは諦めた夢に偶然にも再び出会い、まわりの多くの方々の助けがあってその一端に触れることができたことは、まさに幸せ以外の何ものでもない。感謝の気持ちをいだきながら大学を後にしたのだった。
で、話はここで終わらない。だって、私はその時まだ22歳だったのだから。当時、私の頭の中にはまだ「教師」という選択肢はなかった。けれど、10数年後私は高校の教師になった。この間さまざまな人生ドラマを経験し艱難辛苦を味わうことになったが、その話はここではしない。縁あって教師として遅いスタートを切った私は、「生徒と楽しく世界史を学ぶ」という新しい夢を掲げて次なる一歩を踏み出した。未だ夢の到達点は見えない。見えないからこそ、今度もまた追い求めてみようと思う。