『相談課便り』第9号

『相談課便り』第9号

<平成19年5月発行>

「である」ことと「する」ことの生まれ変わり

池本しおり

「なんだか元気が出なくて…」その女子生徒はそうつぶやいたまま、黙ってうつむいています。「この学校を選んだのはあなた自身なの?」という私の問いに「はい」と答え、「でも・・・」としばらく考えた後に「そうなんですけど、よく考えてみるとそれはそうさせられたのかもしれません・・・」と言いました。

この生徒をAさんとします。Aさんは絵を描くことが好きで、将来は美術の方面に進みたいと考えていましたが、お父さんの勧めもあり、理科系に進んで今は医学部を目指しています。相談室に来談したのは「自分のやりたいことが、今になってなんだかわからなくなった」とのことでした。よく聞いてみると、この高校を選んだのも自分の意志だと思っていたのが、実は周囲の期待によって知らず知らずのうちにそう選択してしまったのかもしれない、ということでした。中2のころには、美術コースのある高校を受験することも考えていたようです。高校に入学してからは友人もたくさんでき、成績も優秀で、毎日が順調に進んでいるように見えました。しかし、なんだか急に「疲れた」という感じに襲われ、最近は自分の部屋でぼんやりしていることも増えたようです。

私は懐かしい昔話を聞かせてもらうような調子で、彼女の小さいころのことを聞いてみました。楽しかったことや印象深かった出来事、忘れられない人のことなど、彼女はいろいろなことを話し始め、そのうちエンジンがかかったように、さまざまなエピソードを活き活きと語ってくれました。きらきらと目を輝かせて、いつも精一杯頑張っているAさんが目に浮かぶようで、私は「へえ~、すごいね」などと感心することしきりでした。幼稚園では歌が得意だったこと、小学校の運動会で活躍した話、絵画コンクールで特選に選ばれたこと、中学校では生徒会長をつとめ、クリーン作戦で学校中をきれいにしたこと。そこには自分が頑張るだけでなく、リーダーシップを発揮して、周りをうまくまとめていくAさんの姿があり、それを見守るご家族や先生方の愛情の深さや期待の大きさも感じられました。これだけいろいろなことができたら、人生はとんとん拍子、思い悩むことなどなにもないように感じられます。

そんなAさんが意気消沈して、部屋でぼんやりしている姿は、なんだかすぐに結びつかない気がしました。現在これといって困ったことがあるわけでもありません。絵を描くことは趣味として一生楽しめるものと割り切り、将来その道に進むことはあきらめて、医学部に合格することを今の一番の目標と考えていると言います。

「あなたはいろんなことができたんだねぇ。それだけできれば、なにをやっても楽しかったでしょう?」との私の問いかけに「充実感はありましたね。なにか一つ達成したら、今度はなにかな…って、いつも次の目標を見つけてました」「ご両親にとっては、自慢の娘さんだね」「う~ん…へへ、そうかな?」「それで今は、医学部目指して頑張ってるわけだね」「はい!」という返事。これは今までストーリーテリングしてくれた「来し方」の延長線にのった、元気な「はい!」です。いままでのAさんなら、ここで「めでたし、めでたし」となったはずです。ところが、いったんは「はい!」となったものの、Aさんの顔が急に曇り、「なんですけどぉ・・・」となりました。Aさんは「行く末」について、つかみどころのない不安を感じているのでしょう。その根底には今までの自分の在り方がこれでよかったのかという、漠然とした疑問もあるように思えました。

相談の本番はここからです。Aさんは何でも人一倍うまくできたために、「できるのが当然」と見なされ、どうやら「失敗」という選択肢がなかったようです。失敗しそうになると「頑張ってなんとかやりとげる」という持ち前の積極性と忍耐強さによって、大概のことは立派にやりとげたようです。中学校のクリーン作戦が頓挫しそうになったときにも、生徒会の仲間や先生方の適切なサポートもあって、最後まで諦めずに頑張ったとのことでした。周囲の人から愛され、みんなのエネルギーを自分の原動力とすることのできるAさんでもあるのです。

「それで、これからAさんはどうなりたいと思ってるの?」「それがよく分からないんです。お医者さんになりたいとは思ってるんですけど…。私、荻野吟子さん(日本初の女性医師)の話を聞いて感激したことがあるんです」「それでお医者さんを目指そうと?」「はい。人の役に立てる仕事でもありますし。今は荻野さんの時代とは全然違いますけど」「お父さんの勧めだけじゃなかったんだね」。Aさんの選択は、さまざまなことを総合して出された一つの結論だったようです。

「なんだか元気が出なくて…」という訴えがどこからくるのかは、はっきりわかりません。しかしここまでのところで、私はAさんの直面している課題が急に起こったことではなく、長年の積み重ねからくることであるように感じていました。なににおいても優秀だった彼女が、なんでもできてしまったために、失敗することもなく、というよりは失敗することが許されないという強迫観念となってAさんを縛っているように思いました。そして、「こうしなさい」と明確に求められなくても周囲の期待を自分から察知し、それを自分の決めたこととして実行してしまうのでしょう。一つの目標を達成したら次の目標、また次の目標と、「する価値」に重点が置かれた際限のないドラマ。Aさんは、舞台で主演するスターのようです。Aさんはそんなことを無意識のうちに感じ、一体いつまでこんなことを続ければいいのか、と思い始めていたのでしょう。

現代社会は「する価値」によって身動きできなくなった状態にあるということを、しばしば感じます。相談活動の中でも「する価値」によって傷つき、自己評価を低下させている生徒にたくさん出会います。「こうありたい」「こうあらねば」と焦りながら、その人がその人「である価値」までもが引き下げられてしまうとすれば、それはなんとも残念なことです。そして、不登校、不適応、無気力、家庭内暴力・・・と相談内容はさまざまであっても、結局この点に行き着く相談のなんと多いことか、ということを痛感しています。

このことについて、少し違った角度から考えてみます。この春卒業した3年生が2年生だったとき、現代文の授業で『「である」ことと「する」こと』という、政治学者の丸山真男の評論文を取りあげました。長年にわたって教科書に載せられている古典的名作です。この作品は昭和36年に出版されたもので、民主主義の基本は「する価値」によって支えられているということが強調されていました。その授業の中で投げかけた問いに対し、卒業式で答辞を述べたBくんが見事に応えてくれた内容を紹介させていただきます。少し長いのですが、Bくんが「自分なりの答え」に到達したプロセスこそ大事だと思うので、そのまま掲載します。

(……略……)高校生活を振り返ってみると、三年前に入学してから今までの思い出が鮮明によみがえってきて、思いは尽きません。名残惜しさと充実感が入り交じって、短くも長くも感じられる三年間の高校生活の中で、自分はどのように成長し、何を得たのだろうか。そう自分に問いかけた時、心に浮かんだ自分なりの答えを、この場を借りて皆さんにお伝えしたいと思います。

三年前、満開の桜の下で、僕は朝日高校に入学しました。入学してしばらくは、右も左も分からず、無我夢中で毎日を過ごしていました。しかし、時が経つにつれ、新しい環境に慣れてくると、それまで気づいていなかった問題が現れてきました。このようでありたいと願う自分と、実際の自分との差、つまり理想と現実とのギャップを痛感するようになったのです。いくら努力してもそのギャップを埋めきれないもどかしさを感じていました。今思えば、当時は自分を見失っていたのかもしれません。

そんなある日の、現代文の授業でのことでした。「現実社会においては、何かを『する価値』ばかりが重視されて、ともすれば『である価値』が軽視されがちな傾向にあるけれど、全ての『である価値』が軽視されてよいのだろうか。」価値観について論じた文章を学習した際に、先生が投げかけられたこの問いに深く考えさせられました。「である価値」よりも「する価値」が重視されることが当然であるように思っていたが、本当にそうなのか。今までの自分は、理想を追求するという「する価値」に目を向けるあまり、「する価値」の上に成り立つ「である価値」の存在を忘れていたのではないだろうか。そもそも、自分の価値観とはどういうものなのか。このような疑問の一つ一つに正面から向き合い、納得のいくまで考えることで、大切なものを得ることができたような気がします。

日々向上することを目指して、理想を追い求めることは、とても重要なことです。しかし、理想と現実が百パーセント一致することは、まずあり得ません。だからこそ、目標に向かって努力した上で、自分自身の「である価値」に目を向けることが大切なのだと思います。そのことが、自らを認め、他人を認めることにつながり、人間的な成長に大きな影響を与えるのではないかと思います。

もちろん、その後も高校生活の全てが順風満帆であったわけではありません。目の前の壁の高さに挫折しそうになったり、深く悩んだりしたこともありました。そんな時に、何でも話せる友人達や、人生の先輩としての先生方の存在が、大きな力となりました。人間は、他人と関わりのない孤独な状態では生きて行けないとよく言われますが、朝日で多くの素晴らしい人間性を持った人々と出会い、彼らに支えられ、励まされてきた僕は、本当に幸せ者だと思います。

さて、今この瞬間も、時は刻々と流れ、卒業の時が近づいてきています。卒業するということは、「朝日高校の生徒である」という価値から離れ、新たな価値を求める旅への第一歩を踏み出すことであると言えるでしょう。未知のものへの期待こそあれ、今まで自分がよって立ってきた価値から手を離すことに対して、不安や恐れはありません。なぜなら、卒業しても、高校生活を通じて得た貴重な体験は僕の中で色褪せることなく残り、今後進んでゆく道の指針となることを信じているからです。少し別の言い方をすれば、「である価値」は形を変えて生き続け、新たな「する価値」を生み出し、それが再び「である価値」を作り出すのです。

「する価値」と「である価値」は、相互に作用する表裏一体のものであり、その両方に目を向けることで、人は成長することができるというものの見方。これが、冒頭の自分への問いに対する答えだと思います。将来、進むべき道に迷い、途方に暮れる時があるとすれば、きっとこの言葉が背中を押してくれると確信しています。(・・・略・・・)

「お見事!」これ以外の言葉は見つかりません。

さて、Aさんのことに戻りましょう。Aさんの不幸をあえて言うならば、「できすぎたために招かれた不幸」ではないかと思います。「する価値」に重点が置かれる現代社会において、Aさんのような人は花形スターです。Bくんの言葉を借りれば「理想と現実が百パーセント一致することは、まずあり得ない」なかで、「ほぼ一致したために招かれた不幸」と言うこともできるでしょう。なにかで挫折を味わえば、そこで立ち止まることもできたのでしょうが。

考えてみれば、学校は「する価値」に支配される場面が多いところだと思います。相対的な尺度による比較の場が日常にあふれています。Aさんの話もなにかが達成されたり、人よりよくできたりすることによる「肯定的な評価」が必ずセットになっています。このことは決して悪いことではありませんし、むしろ子どもが育つ中では不可欠なものです。大人の側から見れば「ほめる子育て・教育」ということにもなります。また、Aさんはこれらの話を自慢しているわけではないのです。「する価値」に支配される場面においては「うまくいく」ことが結果として「肯定的な評価」を招くというに過ぎないからです。

私はAさんの不安を「存在の不安」ではないかと感じました。もしいろいろなことができなかったとするならば、それでも自分は認められたり愛されたりするのか、ということではないか。つまり「する価値」ではなく彼女の「である価値」がどのくらいまるごと受け止めてもらえるのか、それがわからないことからくる不安に立ちすくんでいる状態だと思うのです。だからと言って今度は「だめな自分を演じて、まわりの人を試す」というわけにもいかないでしょう。それは本当の自分ではないからです。

「ピンチはチャンス」という言葉があります。Aさんがアイデンティティを確立する高校生の時期にふと立ち止まったピンチを、チャンスに変えることができれば、と考えました。そのためにはまず「元気のない、今までとは違う疲れた自分」をAさん自身が認めることから始めなくてはなりません。山登りにたとえるならば、今まで一生懸命登ってきたのだから少しばかり腰を下ろし、きれいな空気を吸ったり、花を眺めたり、遠くの景色を見渡したりして、身体や心を休めることを優先する必要があります。そして「よくこんな高いところまで登ってきたなぁ」と今まで頑張ってきた自分をほめ、休んでいる今の自分も認めて、また歩き出すための鋭気を養うことが大切です。

教育相談においてはとりわけ「である価値」を重視します。「する価値」によって傷ついた人をそっくりそのまま受け入れることによって、その人の「である価値」を認めます。たとえ失敗しても、つまずいても、「その人がその人である」ことに変わりはないのですから。そしてそのことは、来談者が自分自身を受け入れる手助けとなるのです。Aさんの場合も同じです。彼女が今立ち止まっていることをまず肯定的に受け止め、そのことに意味を見いだすことのお手伝いをします。この作業は一気にできるものではありません。何よりもアドバイスを与えることによってではなく、自分で考え、自分で気づき、やがては自分の足で新しい一歩を踏みだすところまでを支援するのです。幸いなことに、Aさんは思春期における危機をうまく乗り越えてくれました。新たな「する価値」を見つけることで、新たなAさんに生まれ変わった、つまり新たな「である価値」を獲得し、やおら立ち上がってまた山登りを始めたのです。

思えば学校に限らず、家庭でも職場でも、私たちは当然のように「する価値」に振り回されています。そしてしばしば落ち込んだり、自信をなくしたりしています。そんなとき、信頼できる友人や先生、家族が、その人をまるごと受け入れてくれることで、人はどれほど安心し、勇気づけられることでしょうか。人はだれでも自分の「である価値」を受け止め、認めてくれる人を求めているのだと思います。「朝日で多くの素晴らしい人間性を持った人々と出会い、彼らに支えられ、励まされてきた僕は、本当に幸せ者だと思います」と力強く述べ、「新たな価値を求める旅への第一歩」を踏み出したBくん。自分の在り方・生き方に漠然とした疑問を抱き、迷った末に自分の好きな絵の道を志そうと決めたAさん。彼らの懸命な姿には、すがすがしさとともに、深い感動を覚えます。「である」ことと「する」こと。これらは私たちが生きている限り、その時々に応じて生まれ変わるものであり、人生における永遠のテーマであり続けるのでしょう。
(プライバシー保護の観点から、Aさんの事例は本質を損なわない程度に改変しています)