『相談課便り』第11号

ひとしずく…

西原智子

「ハチドリのひとしずく」という絵本に出会ったのは2年ほど前だった。南米アンデスの先住民に伝わるお話で、山火事を消すためにハチドリが口にひとしずくの水を含み、火事の現場に落とし続ける。文字通り「焼け石に水」のような物語だった。その行為を笑う森の動物たち。なぜハチドリは無駄にも思える行動をとり続けることができるのだろうか?正直共感できなかった。しかし、その本を翻訳・編集した辻真一さんは「地球温暖化、戦争、飢餓、貧困…僕たちの生きている地球は深刻な問題でいっぱいです。しかしそれらの重大な問題よりもさらに大きな問題があるような気がします。それはこれらの問題に対して『自分のできることなんか何もない』とあきらめを感じてしまっていること…。」と書いている。

朝日高校は本当に掃除については昔から自主自律だった。自分が学生の頃から、いや、多分もっと前から…。授業以外で先生が教室に来ることなどほとんどなかった。だからというわけでもないが自主自律。汚くなれば誰かが掃除していた。新校舎になって汚れが目立つようになって、第1走者の我々としては、これではまずいと思うのだが、なかなかうまく「掃除」が動かない。長い朝日高校の歴史の流れの中で、朝日らしく自主自律を守りながら「掃除」を変えることが本当にできるのか…。そう思うときもある。

近頃、落ちているゴミの数が減ったように何となく感じていた。新校舎のせいではない。部室周辺も以前に比べて何だかゴミが散乱していることが少ないような…?そんな頃、ハチドリを見た。ハチドリは朝の自転車置き場で黙々とゴミを拾う。一人で拾う。生徒たちの方がよくその光景を目にしただろう。ひとしずくずつ、大火事の山に水を落とすように、拾ってもだめだと、あきらめて放置されていたゴミを黙って拾う。自分も拾ってみる。確かに何だかきれいになったような気がする。次の日、またゴミは落ちているのだが、それでも拾う。生徒が落とすゴミを、ハチドリは拾い続ける。私は未熟なハチドリなので、時々拾わないで見過ごしてしまう。忙しいからと自分に言い訳をするときもある。

秋、大木の多い本校にはたくさんの落ち葉が舞う。毎週水曜日の早朝、剣道部員たちは「修行」と称して、1年中校門付近を掃除し続ける。みんな感謝しているのだが、それに続く行動にはならない。「もしも『私にもできることがある』と思えたら、問題の半分は解決している」と辻さんは言う。自分にできることがもっとあるのではないかと考える。

地球環境のこと、平和のこと、食べものに関すること、自分たちの周りには看過できない問題が山積しているにも関わらず、見(え)ない人が多い。南極の氷は遠くて見えないから無関心でよいのか?地球上に存在する核兵器の数なんて数えられないから知らなくてよいのか?問題意識を持たずに何でも食べるのか?それぞれの個人の生き方、考え方、行動は、地球環境も、核兵器も、足下のゴミも一緒なのではないだろうか。きっと自分はいつも反省しながらゴミを拾い、無駄な電気のスイッチを切るだろう。弱い自分と戦いながらこつこつと行動することしかできないが、いつか動物たちが気づいてくれるような成熟したハチドリになりたい。

「ハチドリの無駄にも見える努力を笑う森の動物たちにハチドリは答える。
『私は自分のできることをしているだけ』」

そんなふうにさらっと行動できたら、カッコいいかも…。

辻信一『ハチドリのひとしずく-いま、私にできること-』(光文社)

「15歳から18歳」と関わってきて

西野禎恭

高校時代に当たる15歳から18歳というのは、希望に満ちた本当にすばらしい時期です。反面、自我の確立という難題に立ち向かう厳しい時期でもあります。それを若い力とバイタリティで乗り越えていく高校生の姿を見ると、本当に若いということはすばらしいと思います。しかし、今の社会は、先の読めない混乱の時代のようにも見え、経済の先行き不安、環境問題、十代の家出、犯罪、自殺などと様々な問題をかかえています。そんな中で、高校生とずっと関わってきて、感じてきたことを、書いてみようと思います。

いわゆる「思春期」の後半に当たる年代の高校時代ですが、たとえば、保護者の方が、「最近、うちの子が何を考えているのか分からない」、「うちの子は思春期だから反抗して、親にほとんど口をきかないんですよ」などと話されているのをよく耳にします。では、「思春期」とはどのようなものなのでしょう。書物を読んで調べたりもしましたが、私なりに、考えてみたいと思います。

簡単に言うと「思春期」という概念は、子どもから大人へ移行する人生の節目だと思います。思春期のはじめの青年は、精神的なよりどころを探し求めています。しかしそれは、意識されないまま、漠然とした夢とかあこがれという形で現れます。すばらしいもの、完全なものとしてその存在を信じ、探し求め、それが見つからなかったり、手が届かないと思うと幻滅してしまいます。すばらしいものとして期待していたものに逆に醜さや、不合理さを見て、いらだち、気落ちしてしまうこともあります。そして外にある様々なものに対して反抗的になり、外にあるものすべてに敵対する形で存在感を表そうとします。「思春期」というものがいかにやっかいなものであるかということでしょう。なんだか、つかみどころのあるようでないような、しっかりと地に足をつけたいのに、たくさんの風船につられて浮き上がらされるような状態でうまくいかない。まわりにはつかむものもなく、広がりばかり続いていて、どちらに進んでいけばいいか分からない。そんな感じではないかというようなことを、私自身思っています。

様々な高校生と関わってきましたが、逆にこの多感な年代はすばらしい成長の時期であることも確かです。以前、ある部の顧問として3年生の引退となる試合を引率したときのことです。健闘しましたが、最後の試合で負けてしまいました。そのあと、誰もいなくなったグランドの隅でみんなで輪になって座り、最後の思いをみんなで話しました。薄暗い夕暮れのなか、夕焼けの茜色の光に照らされた3年生はみんな声を出して泣いていました。私は、最後の試合なのに負けてしまったという悔しさの涙だと思っていましたが、3年のある生徒が言ったのは、「わけもなく涙が出るけど、悔し涙とはなんか違う。確かに負けたのは悔しいけど、3年間を思い返してみると勝ち負けより別の、なにか自分への感動がわいてくる。うまくはいえないけど、自分自身ここまでやれるとは思っていなかった。悔し涙というよりうれし涙に近い。まわりから見るとおかしいと思うかもしれないが、僕の心の中では、なんだか熱いうれしさがこみ上げてくる。」という言葉でした。そしてその競技の専門家でもなく、ほとんど引率だけしかできなかった私に「こういう体験ができたのも、先生のおかげです。本当にありがとうございました。」と言ったのです。その部員の一途な思いと純粋さに、私も思わず胸が熱くなりました。

私は、高校生活は「感動と発見の場」であると思っています。何気なく行ったことが友達にすごく感謝された、自分としてはふつうにしたことでも、実はそれが人に負けない自分のいいところなのかもしれないと感じた。昨日まであんなに難しいと感じ、なかなかできなかったことが、今日できるようになった。この人とは合わないと思って話もしたことのない人とあるきっかけで話しているうち、意気投合して、その人と友達になれそうな気がした。このように、大人にとっては些細なことと思う事柄でも、それを素直に感じ、感動し、喜ぶことのできる年代です。そういう意味では、「思春期」はすばらしい。そういう気持ちで過ごして欲しいと思います。前向きな気持ちで考える方が、きっとうまくいきます。昨日の自分と今日の自分、どこか変化しています。小さなことでも進歩しています。15歳であれば、15年間の積み重ねがあり、18歳であれば、18年間の積み重ねがあるということになります。1つ1つをとってみれば些細なことでも積み重ねれば大きいのです。

最後に、私はあまり本を読まない人間ですが、高校時代に読んだ本で、どうしても捨てられない本があります。井上靖の、『夏草冬濤』、『北の海』、山本有三の『路傍の石』です。その中で、よく知っている人も多い文章ですが、ここで、いまでも頭に残っている『路傍の石』の一節を紹介します。それは小説の中で、次野先生が吾一少年に語った言葉です。「おまえというものは、いいかい、愛川、愛川吾ーというものは世界にたったひとりしかいないんだ。どれだけ人間が集まっても、同じ顔の人は、ひとりもいないとおなじように、愛川吾ーというものは、この広い世界に、たったひとりしかいないのだ。たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、本当に輝かしださなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。いいか、この言葉を忘れるなよ。」

誰もがそれぞれ、世界でたった一人しかいない大切な存在として、かけがえのないものなのです。

「いじめ問題・悩みに関する調査」まとめ

松本雅子

教育相談課では今年度全学年を対象に「いじめ問題・悩みに関する調査」を行いました。この取り組みは時代的背景により質問項目や形態が変わってきてはいますが、教育相談課として長年来継続的に実施しているものです。2・1年生は毎年実施してきましたが、今回初めて3年生も対象とし、本校全体の実態把握に努めました。「問A」は質問法、「問B・問C」は自由記述で答えてもらいました。

「問A いじめ・悩みについての質問」の結果

1=あてはまらない  2=あまりあてはまらない  3=ややあてはまる  4=あてはまる
の4件法で回答し、平均値を表す。

「問A」質問項目3年2年1年
1生活のリズムが整わず、体調をよく崩す。2.12.12.1
2友人関係で悩むことがよくある。1.81.92.0
3学校内に信頼して相談できる人がいない。1.61.81.8
4勉強の仕方がわからず、集中できない。2.32.32.4
5将来の見通しが立たず、気力がわかない。2.12.12.2
6学校に行きたくないとよく思う。1.91.91.8
7先生は私の話を聞いてくれない。1.51.71.6
8先生は成績で生徒を差別する。1.82.01.9
9先生は授業の進め方が悪く、説明がわからない。1.81.91.8
10私には友人がいない。付き合いがうまくいかない。1.41.31.3
11私はいじめられている。1.11.11.1
12からかわれたり、手を出されることがあり、いやだ。1.31.41.4
13言葉や態度で傷つけられることがある。1.51.51.7
14クラスの中に改めるべき問題がある。1.61.81.9
15いじめたりいじめられたりしている人がいる。1.31.41.6
16人が私をどう思っているのかとても気になる。2.32.42.5
17私のことをわかってくれる人は一人もいない。1.51.51.5
18家族は私に過剰に期待をかける。1.71.81.9
19家族には、悩みがあっても相談できない。1.81.91.4
20私の落ち着ける場所はない。1.51.51.4
平均1.71.81.8

数値をみると学年の差ははとんどなく、学校全体の傾向が見えてきます。「勉強のこと」「将来の見通し」「授業」「成績」が比較的高いポイントになっています。またハードスケジュールのため、生活リズムが整わず体調管理ができにくい様子もうかがえます。

「11 私はいじめられている」で「あてはまる」と答えた生徒は各学年とも0人でしたが「ややあてはまる」と答えた生徒は、1年生で5人、2年生で3人、3年生で5人いました。その他「からかい」「言葉や態度で傷つける」など「いじめ」と捉えられる言動もみられることがわかります。

「16人が自分をどう思っているか」は各学年ともポイントが高く、「2 友人関係の悩み」も多いことがわかります。また「友人がいない」「わかってくれる人が一人もいない」と答える生徒も数名います。対人関係がうまくいかなかったり、思いを上手に伝えられなかったり、孤独を感じたり…他人の目を気にしつつ、さまざまな葛藤を抱えて精一杯生きている高校生の姿がうかがえます。

【問B 朝日高校に「いじめ」はありますか。あるとすればどのようなことですか】について

・ 「ある」「ないと思う」「少なからずある」「分からない」
・ 「あるとすれば」→「ネット上での中傷」「言葉の暴力」「いじり」「からかい」「陰口」「無視」「冷笑」「いやがらせ」「精神的なもの」
などがあがりました。

【問C もしも「いじめ」にあったり悩んでいる友人がいたら、あなたはどうしますか】について

・ 「話を聞いてあげる」「解決の方法を一緒に考える」「できるだけ自分で解決する」「先生や親に相談する」
・ 「何もしない」「できるだけ関わらないようにする」「何ができるかわからない」「行動は難しい」
・ 「助けたいと思うが方法がわからない」「助けるために具体的に何をすればよいか学びたい」
などがあがりました。

2007年1月に文部科学省がいじめの定義を見直しました。見直し案では「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」とされました。また具体的ないじめの種類については、「パソコン・携帯電話での中傷」「悪口」などが追加されました。いじめの件数についても「発生件数」から「認知件数」に変更されました。このような経緯から本校におけるいじめの認知件数も少なくないことが予想され、さまざまな課題が含まれていることが考えられます。

今回の調査を見る限り、ほとんどの生徒が「いじめは悪い行為であると考え、可能であるならなんとかしたい」という誠実な思いをもっています。と同時に「現実には解決が難しく結局何もしない」と答える生徒もあり、問題の難しさを感じさせます。この結果は「学年団」「教育相談課」「いじめ問題対策委員会」で報告検討され、クラス担任を中心に個別にまた集団に働きかけ継続的に対応しているところです。

また教育相談課では今年度、保健委員を対象とし希望者も受け入れてピアサポート(Peer=仲間 Support=支援)のトレーニング研修を始めています。ピアサポートは欧米から導入された心理教育の一つで、日本でも少しずつ広がりを見せています。問Cの記述の中に「具体的な解決方法を学びたい」「解決のために何ができるか学びたい」「ピアサポートを生かしたい」という積極的な意見もみられ、「仲間のため自分に何ができるか」を考えてくれている生徒がいることがわかります。ピアサポート活動を通して参加者自身が成長し、生徒達の中に潜在的に備わっている仲間支援の力を引き出すことができれば、と考えています。一人一人が大切にされ認め合うことのできる温かい学校になれば、それはとても素敵なことではないでしょうか。

バランス感覚

石原明子

「人の気持ちのわかる子に…」小学生の頃、年度当初の学校への書類にいつも父が書いていた言葉。自分が親になってみて、やはり同じことを願う。

しかし、そんな思いを揺るがされた経験がある。

長女(Y)が5歳の時、保育園にお迎えに行くと、先生に「お友達とちょっともめて涙が出ました」と言われることが続いた。本人が何か言うわけでもなく、友達とぶつかることも勉強だからと、さして気にとめなかったけれど、懇談では少し違った話になった。

「AちゃんもBちゃんもYちゃんと遊びたいんです。でも2人ともYちゃんとだけ遊びたいんです。そうなると2人の間に挟まって責められて困って泣けてしまうんです。自分の気持ちが言えるといいんですけど」

娘に思いを問うと、「みんなで遊びたかったんじゃ」とポツリ。自分の思いと友達の思いとの間で娘は戸惑っていた。自分の気持ちが言えないことのしんどさを感じていた。娘の気持ちをわからなかった私は、自分の気持ちを伝えることの大切さを教えそこねていたのだ。

ある研修会で質問には2種類あると学んだ。「閉ざされた質問」と「開かれた質問」。普段の娘への問いかけを思い返してみた時に、私の問いかけは前者であることが多いことに気づいた。「今日楽しかった?」「○○ちゃんと遊んだの?」これらは娘の思いを聞くふりをして私の思いを押しつけるものだった。楽しく遊んでいて欲しい、○○ちゃんと友達でいてほしい…。「今日どうだった?」「何したの?」と問うていれば、娘は自分の思いを存分に語れていただろう。

人の思いを気にかけて行動できる…素敵なことだと思う。でも、自分の思いを抜きにして、人の思いにがんじがらめになってはいけないのだと思う。自分の思いを知ること、自分と向き合うこと、これはとても大切なこと。それと同時に、人と関わって生きていく限り、そこに他者という存在への意識は欠かせないのではないかと思う。

「自分」の思いと「他者」の思いとのバランス。譲れない自分の思いを貫かねばならない時もあるだろうし、他者の思いに寄り添うべき時もあるだろう。ただ、人の気持ちを慮る時、それは自分が考える他者の思いでしかないことを気にとめておかなければならない。だからこそ、自分をよく知っていたいと思う。そして、相手の方から発せられるサインに気づける者でありたいと思う。

今、娘は帰宅する私を待ちかまえて言う。「ちょっと聞いてよ、お母さん!」自分の思いを言いたくて言いたくて仕方がない。私にも手厳しい一言を発する。最近は「相手の立場で考えてごらん」という思いで話をすることが増えた。娘の成長を喜ばしく思いながらも、自分の気持ちが言えなくて困っていた頃の娘が少し懐かしい…かも。