『相談課便り』第32号

『相談課便り』第32号

★平成24年度の最後に、先生方からの素敵なメッセージをどうぞ。★
今回の挿絵は、すべて美術の岡本昌康先生に描いていただきました。

「ばんそうこう」

石原明子

上の娘はこの春から高校生になる。やっと義務教育期間が終わると思うと、ホッとするやら寂しいやら。

今振り返ってみると、年を追うごとに娘にかまける時間は減り、制服のアイロンがけもボタン付けもついぞしてやった記憶がない。ふと思い出したように罪悪感にかられて「ごめんね」と言ってみるが、娘は言う。「別に。自分でできるし…」これは母を見切った言葉かもしれない。が、ポジティブな私は娘の成長と捉えて拍手を送る。

彼女は成長とともに、私の知らない自分の社会を広げ、その中で大きくなっていった。私の目の届かないところで、きっといろんな思いに揺さぶられたことだろう。暗いオーラを出している日に「何かあった?」と尋ねても「別に…」と可愛げのない返事しかなくムッとした覚えもある。けれど、時に、こちらが尋ねなくてもぽそっと自分の思いを語ることがある。彼女自身は気づいてないかもしれないが、たぶん、そういう時には、自分で引き受けて、自分の中でなんとかしようとしてきた踏ん張りがきかなくなっている時なのだろうと私は感じる。だから、「別に…」と言っている間は頑張ろうとしているのだなと思うことにしている。

ばんそうこうは怪我をしてからでないと出番がない。しかも薬ではない。あくまでも自分の治癒力によって怪我は治る。ばんそうこうは、まだその怪我がジクジクと痛む時に、更なるダメージを受けないように保護をする。あなたが痛みに耐えていることを私は知ってるよというサインのようなものかもしれない。もしかすると親というのはそういう存在なのかもしれないと思う。子どもが転んで怪我をしないように、杖となり、時には目の前の石を取り除いてやったりすることもできる。しかし、子どもは転んでもグッと泣くのをこらえる力を持っている。転んだ時にしか見えない風景もある。一度転んだことで、次に転んだ時は上手に転んで自信をつけることだってできる。子どものそういうプライドや可能性を信じてやれるのも親だ。

優しさには2種類あるという。「予防的優しさ」と「治療的優しさ」。失敗しないようにしてやる「予防的優しさ」の方が一見優しそうだが、実はそちらの方が「失敗はしてはいけない」という思いと背中合わせであるがゆえに、厳しいものだともいえるのだそうだ。

ますます娘は私の知らない彼女なりの世界を広げていく。まだまだ何度でも転ぶだろう。彼女が必要とする時に差し出せるばんそうこうをいつも持って、私は私で、次のステージに立つ自分のあり方を考えようか……。

「きっかけは○○」

行藤瞳

部屋の片付けをしていると、学ランの第2ボタンが出て来たので昔の思い出について語ろうと思います。あなたはなぜ朝日高校を志望したのですか?この質問を答える際に明確な理由が言えると思います。あなたはなぜその色が好きなのですか?明確な理由が言えますか?前者の質問に比べたら難しいのではないかと思います。何か”きっかけ”があってその色を好きになっただけで特別な理由がない人は多いのではないでしょうか?

約10年前、私は皆さんと同じような高校生でした。ただ、皆さんと異なる点は将来について全く考えていない、今さえ良ければ何でもいいや~という残念な生徒だったということです。勉強…ぼちぼちするわ。予習?でも今日は(も)眠いからしないけど、明日早く起きてやるよ(100%したことない)。将来の夢?今はないわ。部活…中学時に熱中しすぎたからもうしたくない、でも文武両立をモットーにしていた我が母校では担任に何度も説得され、中学と同じ部活にしぶしぶ入部。けど面倒臭い。このように、ダメダメ~な毎日を過ごしていました。こんな人間に奇跡的にも付き合っている彼氏がいて、彼は同じ中学校出身で違う高校に通い、勉強と部活を両立する、私とは正反対の人でした。私は学校で頑張りたい事が見つからない、何に対してもモチベーションが上がらないため入学時には上位だった成績も1学期期末考査になると、どこまで下がっていくの…という結果になっていました。そして、同時期に退部もしました。すると、担任から度々呼び出しをされ、面談と称して「悩みはないか?」とか「最近楽しかかったことは?」とか当時は何を意図しているのか分からないことをよく聞かれ、煩わしいという感情を押さえられなかった私は素っ気ない態度を見せるしか出来ませんでした。この嫌な気持ちを伝える相手は彼で、いつも愚痴ってばかりいました。学校生活に熱心な、一方で何も頑張れることがない私…目に見えない亀裂はどんど入っていきます。

(中略)

秋になると突然彼に振られました。今現在でも正しい理由は分かりませんが、何も頑張れない、自分にとってマイナスの存在にしかならない彼女なら必要ないからだと考えています。失恋直後の絶望感は今思うと失笑レベルで恥ずかしいのですが、当時はダメージが非常に大きく生活も荒れ、再び担任に迷惑をお掛けした状態になりました。ただ、どこかで彼を見返えしてやりたいという気持ちが非常にあり、進路選択で彼と同じ理系を選んでからは心機一転して勉強と向き合いました。志望が決まった頃には失恋したことは頭からすっぽりとなくなり、自分なりに楽しい学校生活を送っていきました。ちっぽけなプライドでやりだした勉強。“きっかけ”は失恋。

“きっかけ”で人は変わることが出来ます。皆さんが良い“きっかけ”に出会うことを切に願います。

(MIKI)

~保健室の窓から~「またね」

3月2日、今年も3年生が朝日高校を巣立っていきました。出会いがあれば別れもあると分かっていながらも、やはり少しもの寂しい、そんな季節。卒業式後の学校は「卒業生」がこれから別々の道へ進む仲間と最後のお別れ(撮影大会、寄せ書き、部活の集まりなどなど・・・)で大忙しです。そんな中、「最後に挨拶!」「せんせー」と保健室に顔をのぞかせてくれる子たちもいます。たまに身長を測りにきていた子、勉強が苦しくて、教室がしんどくて・・・ソファーにべったりでなかなか動けなかった子、保健室でよく泣いていた子、いつも楽しい話をして笑わせてくれていた子、(もういいだろうってくらいに)とことん話をした子・・・一人一人顔を見ていると、その子をめぐる様々なことが思い出されてなんとも言えない気持ちになります。それと同時に、何かを求めて保健室へやって来る彼らに果たして自分は満足のいくかかわりができていたのかと反省させられます。「来年度はもっとこうしよう」と思っても、そこに彼らはもういないのです。(まさに、一期一会。)

「じゃあ先生、またね!」またね。大きな声でそう言って、おだやかな、落ち着いた良い表情で保健室を後にする彼らは苦しいことも辛いこともたくさんあった3年間をまるごと包み込み、そこから一歩未来へ踏み出していくような、少しだけ「強い」表情に見えます。どんな経験もすべて、自分を支える糧になる。泣いた日も笑った日もありました。保健室でも日々いろいろなことがあり、様々な感情に出会い、見てきました。よく頑張ったね、と心の中で思い、彼らの背中を見送りながら、またね、また会う日まで元気でいてね、頑張るんだよ、etc…と願う私。「またね」には言葉にならないいろいろな気持ちが含まれているような気がしました。「またね」という言葉が好きです。何か確実な約束をするわけではないけれど、この出会いや縁が心のほんの片隅できっとずっと続いていく気がするからです。だから、「またね」。人生は出会いで満ちています。どうか出会う人との縁を大切に、人とのつながりを感じられるときを過ごして欲しいと思います。それぞれの地でたくましく生きていってください。また、いつか会う日まで・・・

さあ、もうすぐ4月。今年はどんな出会いが待っているのかな・・・(*^^*)

(MAI)

「ふくしまを訪ねて」

大西秀規

約1年半前の8月、前任校の全国総合文化祭の囲碁の大会で福島県福島市を訪れた。その年の3月11日に東日本大震災が起き、地震や津波による被害は甚大であり、崩壊した原子力発電所から出る放射性物質の影響もあった。福島市は原発から約60kmの距離にあり、一時は大会の開催が危ぶまれていたが予定通り行われることになった。大会が近づくにつれて、遠くで起きていることではなくだんだんと自分自身のことに変わってきた。

福島県は東西に長く、東から浜通り、中通り、会津と3つのエリアに分かれている。大会が開かれる福島市は中通りにあり、津波による直接の被害はなく、甚大な被害を受けた浜通りとは状況が違うようだった。

桃など福島の名産の安全性を大会の冒頭の挨拶でアピールされ、風評被害から守りたいという切実な願いが感じられた。また、昔話の桃太郎の起源が岡山なのか福島なのかという議論を思いだし、同じ桃の産地であることから福島に親近感を感じた。また、地元の高校生達などボランティアが中心となって大会を運営しており、若者の活力が感じられ、元気をもらった。しかし、現地の新聞には何面にも渡り事細かに福島の各地区の放射線の量が示されており、不安な状況の中にいる福島の人の状況が伺えた。でも、目に見えない放射線は新聞の数値を見てもピンと来なかった。

大会の何日目かが終わってホテルに帰るときに雨が激しく降ってきた。根拠は何もないが、生徒や自分が傘を差して土砂降りの中を歩いて帰っては何かいけないと思い、近い距離ではあるがホテルまでタクシーで帰った。雨に濡れた衣類はすぐ洗い、シャワーを浴びた。目に見えないあるかもしれない放射性物質に対して、何をしてよいかよく分からなかった。地面から近いところは影響がやや強いという情報を聞いたら、地面に近い屋外を歩く時間を少なくなるようにし、建物の中に入ると安心感を覚えた。岡山に帰ってからも何か気になり、衣類だけでなくリュックサックや靴も洗った。現地に住んでいる人には何か悪いと思いながら。

震災が起きてからしばらく経つと、被災地から各地へ移り住んだ人への心ない対応や風評被害のニュースを聞くことが増えた。被災地の人は大変だと思いながらも、自分は災難に遭っていないから良かったというどこか他人に起きたことという考えが自分にはある。人の立場に立つという言葉は簡単に言えるが、本当に人の立場に立つことは難しいと思った。被害を経験した人しか分からない、大変な状況にある本人しか分からないことはあるかもしれないが、これでよいのかと思わされた。

「2度目の頂にて」

湯浅太一

「日本一高い場所から見る景色はどういうものだろうなあ」という気持ちを抱いて私は昨年生まれて初めて富士山へ登山することになった。登山すること自体初めてなのに、日本で最も有名なその山のことを全然知らない。それを改めて認識したとき、私の胸の中では未知な者に対する不安な気持ちと、それと同じくらい「よし、やってやろう!」という気持ちがあったことを覚えている。

1年目(高祖学年)の登山では、五合目は思ったより寒く、だけど歩き始めると意外に暑かった。傾斜も緩く、生徒も快調に歩いている。「これは思っていたより楽だな。」七合目まではそんな思いだった。七合目から八合目にかけては少しずつ急になり、足下にあるものが石から岩に変わっていく。辺りも薄暗くなり、気温もどんどん下がっている。「あそこに見えるのが宿舎か」と思って遥か彼方に見える小さな光に向かって足を進めていく。やっとその光にたどり着いたときはさらに上に彼方があった。

初めての登山は自分との戦いだった。特に仮眠をとった後の九合目~山頂にかけては極寒、強風、小雨の中進まなければならなかった。「なぜ自分はここにいるんだろう」と思いさえした。それだけに、山頂にたどり着いたときには達成感と充実感で一杯だった。そこで見た景色は今でも鮮明に覚えている。その景色の素晴らしさに涙がこぼれた。そこがどんな景色なのかは実際に自分の足で登って見てほしい。

2度目(中野学年)の登山は昨年と少し違っていた。一度登ったということもあり、心の余裕があった。天気も良く、山頂少し手前で昨年拝めなかった御来光も見ることができた。そして山頂に立ったとき、そこで見た景色は以前見たときほどの衝撃がなかったように思う。「こんなものだったっけ?」

2回目の登山中に知ったことだが、登山ルートはいくつかあって、今回登ったルートはその中でも最も簡単なものだそうだ。それを知ったことで、富士山の1つの顔だけ見て「富士山楽勝だな」と思った自分の存在がとても小さなものに思えた。まさに「井の中の蛙大海を知らず」だ。

1つの山を登り切ったとき、そこでの景色はそこにいる人にしか見えなくて、そしてそこにたどり着いた人にだけ次の山が見える。そして次の山を登るか登らないかを選択するのは自分自身である。私は以前、自ら山を降りた経験がある。高校時代は陸上競技をしていたのだが、最後の総体で四国大会(こちらで言うと中国大会)に優勝した段階で受験勉強に切り替えた。自分で納得した選択だったので後悔はしていないが、あのまま登り続けたらと思うことがふとある。

今は高校の数学教員として登っている最中だ。朝日高校には頂上が見えない程の山々がたくさんある。それぞれの山で見える景色はどんなものだろうか。清々しいものなのか、それともさらなる高みに圧倒されるのか。どちらにしても歩みを止めることなく登り続けていきたい。