『相談課便り』第48号

「少年よ,悩みなさい」

柴田 みさえ

3月のある日,息子の通う中学校の先生から職場に電話があった。体調を崩して,良くなりそうにないので,迎えにきて欲しいとのことだった。心の中で,『おかしいなぁ。朝,家を追い出した時には,調子が悪い様子など微塵も無かったのに。』すぐさま,『ひょっとして仮病かもしれない』と思う。春休み中の暇な大学生の娘に迎えに行かせ,病院に行くために仕事を切り上げた。家に帰ると,胸を押さえてうなだれた息子が元気なくソファーに座っていた。「だいたい,大袈裟なんよ。息をする時に胸が痛くなるなんて,私だってあったわ。痛くない程度に息してたらなんとかなるわ」 と娘。大学生になっても部活をやっている体育会系の女子はなかなか厳しい。いや,そんな風に母親の私が彼女にそう言ってきたのかもしれない。子どもは育てたようにしか育たない。たくましく育った娘の方はさておき,まだ手のかかる中学生の方は,病院で診察してもらえば落ち着くだろうと,心電図やレントゲンをとってもらう。予想はしていたが,何も悪いものは見つからず,病院の先生にも思春期にときどきある症状だと言われた。少し落ち着いて考えると,息子は今までにも急に体調が悪くなることがあった。そしてそれは決まってこちらが忙しくて息子をかまっていない時だった。友達のいない息子は,自分の心にあるものを家庭でうまく処理できないと「寂しい病」になってしまい,原因のはっきりしない体調不良になってしまう。そう言えば,このところ彼の話をいい加減にしか聞いていなかったように思う。なんだか一生懸命その日の出来事を話してくれるのだが,話が要領を得ないので,「ふうん,それで?結局どうなったん?」という感じの相槌になる。まだこれに抑揚があればいいのだが,こちらも面倒になるとその抑揚も平坦になって機械的な聞き方になってしまう。『原因は私かぁ』としばし反省。

振り返ってみると,子育てを始めてから仕事との両立を心のどこかで悩みながら続けてきた。家では『これでは母親失格だ』と思い,職場では『これでは役に立っていない』と思う。自分の理想とする『母親像』と『仕事をする女性像』との間で振り子のように揺れながらそれでも前に進んできたのだろう。保育園まで自転車で送り迎えをしていた頃は,子どもを自転車に乗せたまま転倒したり(これは小児科の先生にもしかられた),お昼寝用の布団だけ乗せて,肝心の子どもを自転車に乗せ忘れて出発したり(これは今でも近所のおばちゃんに言われる),家で子どもを抱えたまま階段を踏み外し転倒したり(これは階段の破壊につながった)とちょっとしたエッセイが書けるほどのネタがある。朝日高校に勤めるようになって長いが,優秀な生徒達を毎日見ていると,自分の子どもはどうして同じようにできないのかと思ってしまう。仕事の方も,家でやろうと持ち帰るが,家事が終わって知らないうちに寝入っていまい,朝方目が覚めて青ざめることもよくある。生徒を自分の子を叱るように注意すると,「教育者の指導ではない」とお叱りを受けたこともある。なんとも情けない限りだが,母親業か仕事かどちらかをとれば悩みが解決するわけでもないのだろう。救いがあるとすれば,いつも一生懸命に母親業と仕事をやってきたことだろうか。生徒にも,もちろん自分の子供にも愛情は注いできたつもりだ。ただ『サボテンまで枯らしてしまう女』の異名を持つ私は,水に限らず毎日適量を注ぐことがきっと不得意なのだ。悩むことが無くなると,人間は成長しなくなるかもしれないとポジティブに考えるべきかもしれない。生徒達も悩みながらきっと成長するのだろう。息子の『寂しい病』も成長の過程かもしれない。ただ心が苦しくなった時には,誰かに『愛されている自信』を持って欲しいと思っている。

大丈夫です。・・・? 

松北 髙行

生徒は皆慌ただしい毎日を忙しく駆け抜けている。目の前の課題をこなすだけでもアップアップ。余裕のない人が本当に多いと感じる。「少し心配だな」と感じる生徒に「大丈夫ですか?」と声をかけるとほとんどの場合反射的に「大丈夫です。」という言葉が返ってきてしまう。よくよく聴いてみると全然大丈夫ではない場合がほとんどだ。だから今では別の尋ね方をしている。

「大丈夫」の語源は「立派な男子」ということで、そこから「非常に強い」「非常にしっかりしている」「非常に健康である」という意味でも使われるようになったようだ。なるほど確かに頷ける。
気になったのでいろいろ調べてみると最近の若者は、本来の意味とは違った使い方をしているようだ。ではどんな時「大丈夫」を使うのかというと、例えば友人の誘いを断る時に「大丈夫」を使う。はっきりNOと言ってしまうと相手を傷つけてしまう気がするが、「大丈夫」だと優しい感じがするので使っている。あるいは、“わざわざ聞いてくれてありがとう。”みたいな気持ちをこめて「大丈夫」と言っているようだ。いずれにしても相手に対する思いやりの気持ちが垣間見える。それはそれで素晴らしいことなのだが、受け手側としては「大丈夫なのか、ではそっとしておこう。」と次の言葉をかけにくくなって会話が途絶えやすくなってしまう。そうでなくても携帯端末の普及で他人との会話によるコミュニケーションが不足していると言われている昨今、「大丈夫」という言葉で会話が途絶えてしまうのはいかがなものか。

本当は「大丈夫」じゃないのだけれども、「心配をかけたくない。」「迷惑をかけたくない。」と思っているのであれば、少しの勇気をもって「大丈夫じゃない。」って答えましょう。

「大丈夫じゃない。」って答えても「大丈夫」です。

「いるだけでいい」

内田 康晴

30年ほど前から、今の場所で暮らすようになると同時に、地区の町内会に顔を出すことになった。町内といっても、兼業農家の多い、水田に囲まれた田舎である。

最初の数年は戸惑うことが多かった。

ある年の、「缶拾い」と呼ばれる町内の道路のゴミ拾いのことである。

集合時間の8時に,集合場所へ行っても誰もいない。戸惑っていると,近くで農作業をしていた人が、「もう済んだよ。」と教えてくれた。そういえば前の年も、集合時間にはすでに一回りして集めた缶を手にした農家の人が何人かいたのだが、こういうことのようだった。つまり、農家の人は、夜明けとともに起き、一日の仕事を始める。それは、暑い夏に涼しいうちに仕事を片付けたり、日が暮れれば農作業は出来なくなるという点で、合理的な習慣なのである。缶拾いも、その流儀で、早め早めに始められていた結果、ついにその年は、集合時刻には終わってしまったということのようだった。(さすがにこれはその後改められ、予定の時刻通り開始されるようになった。)

また、公民館で開かれる「寄り合い」というものがあった。会議なのだけれど,会議運営の基本が踏まえられているわけではなく,しばしば原案なしで始まり,途中昔話や世間話に脱線したりして,延々と時間がかかるといったふうであった。これには閉口したが,あるとき、ふと効率的でないその町内会が、一方で妙に居心地がいいことに気が付いた。

この居心地の良さは、いったい何なのか?それは、ほかの多くの場所と違い、ここにいるだけで、存在を認められ、歓迎される「いるだけでいい」場所だからだと確信した。

例えば、年に一度用水路を整備する「川そうじ」という行事がある。川底にたまった泥や藻を取り除くややハードな行事である。クワやスコップの扱いに慣れた農家の方と比べ,私など要領も悪く、あまり戦力にならない。また、家の事情で、高齢の方や女性が出てきている場合もある。しかし,皆ができる範囲のことを、それなりにやりながら、きわめて円満にことが進行する。その人の能力とは別に、皆がいるだけで尊重されているのである。

ほかの多くの場所では、その人の能力の分だけその人が評価され尊重されることが多い。そういう中では,無意識に緊張して疲れ切ってしまったり、あるいは自分自身が、能力という物差しで自分の価値を測ってしまい「自分はあまり価値のない人間だ。」などと考えたりしかねない。

日本の農業の中では,一家の働き手が、けがや病気になったりして、一家の農耕の力が十分でなくなったときなど、血縁や地縁のなかで手助けされてきたことの名残が「いるだけでいい」町内会の居心地のよさなのでないかと思う。

地域であれ、家庭であれ、友人の中であれ、「いるだけでいい」場所こそ、人にとって最も基本となるべき大切な場所である。そこでしっかりと身と心を休めてこそ、これまた避けて通れない、この理不尽な「能力で評価される」学校や社会をなんとか生き抜いていくこともできうるものなのではなかろうか。

バランスについて

高山 あゆみ

よく、「バランスが大事」という言葉を目にする機会が多いですが、そもそもバランスとはなんでしょうか?辞書で引くと「釣り合い。均衡。また、調和」ということでした。

保健室で生徒の話をしていると心身共にバランスを崩している生徒がたくさんいました。身体と心は相互作用が有り、身体の調子が悪くなると心の調子も悪くなり、心の調子が悪くなると、また体調を崩しやすくなります。その中でも、時には怒ったり、泣いたり、大笑いしたと、感情を大きく揺さぶられることもたくさんあったかと思います。私たちは日々、忙しく何かに追われながら過ごしており、その生活は微妙なバランスの上で成り立っています。

あなたは平均台に幼い時乗ったことを覚えていますか?細い台の上なので初めて乗ったときは、体が左右に大きく傾き、台の上から落ちてしまうこともあったでしょう。しかし、何度も練習することで、手を左右に伸ばし、脚を交互に運びまっすぐに前を見つめ姿勢良く歩くコツをつかみ、渡れるようになったと思います。ましてや練習次第では倒立前転という技もやってのけることが出来た人もいるのではないでしょうか。

人間はよくできたもので、自然と力のつりあいがとれるようにできていますが、意識的にいままでの経験から体験したバランスのコツを感覚的に養っていることも多いと考えます。

高校生の時期は自分の進路や友人や家族との関係で悩み、バランスを崩しやすくなる時期でもありますが、いろいろなことにチャレンジし、時には休んだりして、自分の心身と向きあいながら、絶妙なバランス感覚を是非養っていって欲しいと思います。

挑戦

竹内 梨子

親友から嬉しい知らせが届いた。某テーマパークの就職試験を受け、「筆記試験と面接に通ったから次のグループディスカッションに行ってくる!」という連絡だった。彼女はすでに働いていて、仕事をしながらの転職活動だった。驚いた。夢を諦めずにいたこと、そして何より働きながら勉強し、東京に足を運んでいた彼女の行動力・体力に驚いた。彼女がずっと夢だった場所で働けるかもしれないということで、自分のことのように嬉しかった。絶対に受かって欲しいと思い自然と足は吉備津神社向かっていた。合格祈願をし、お守りを買って彼女に送った。グループディスカッション、最終面接、健康診断を受け、彼女は見事合格し、この4月からステージマネージャーとして働くことが決まった。夢を夢で終わらせず、挑戦し実際に夢を掴んだのだ。

皆さんには叶えたい夢はありますか?目標はありますか?私もダンサーになりたい!と思った時期もあったが、行動できなかった。自分に自信がなく勇気が出なかったのと行動する体力がなかったからだ。

大学4年、毎日朝から晩まで授業以外はずっとダンス場にいる毎日。家に帰るよりもダンス場にいる方が長かった。。。精神的にも体力的にもその頃はいっぱいいっぱいで、何も挑戦できなかった。もしあの時何かに挑戦していたら、勇気があれば、自信が持てれば。私は「タラ・レバ娘」です。皆さんもこれから色々選択することが出てきます。その時は是非挑戦してください。困難な道をあえて選んでください。自分に自信を持って、壊れそうなときは助けを求めて下さい。

“人間は全知全能になることは絶対にあり得ないわけですから、すべてを自分で抱え込むことは出来ない。そのかわり、世の中にはいろんな人がいて、いろんな知識や知恵をそれぞれ持っていますから、他人とのつながりあうことによって自分の欠点を補ってもらったり、こちらから何かを提供するなりといった形でコラボレーションできる。”

「響きあう脳と身体」という本の一文です。人とコラボレーションしながら様々な事に挑戦してみて下さい。