『相談課便り』第60号
『相談課便り』第60号
通勤途中に微笑ましい気持ちにしてくれていた元気に動くランドセルの集団が突然見られなくなり,学校に着いても生徒の姿も部活動をしている音も聞こえない,今まで体験したことのないような状況に困惑しながら,それでも例年のように花を咲かせる準備をしている桜の木々に少し元気をもらっている日々が続いています。学年のしめくくりの時期に集団から離れて,一人で自分自身と向き合う状況になりましたが,他人と比べることなく自分のペースでこの一年を振り返る,思いがけないチャンスかもしれません。仲間と共に過ごす時間,家族と過ごす時間の大切さ,話を聞いてくれる人がいるありがたさ,共に学ぶことのおもしろさ,そしてひとりじっくり考える時間の大切さ…。本当はかけがえのないものであるはずなのに「当たり前でいつでも手に入るもの」と片付けていたことにハッとします。まだまだどうなるかわからないことも多いですが,今しかできない心のメンテナンスをして,新しい学校年度の始まりをいつものように少しドキドキもしながら待って欲しいと思っています。
我が家のかわいい家族
松北 髙行
仕事を終え自宅の駐車場に車を止めていると家の中から『お帰りなさい。』の声が聞こえてくる。残念ながら妻や子供ではなく、4年前から家族の一員となったオカメインコのバニラである。(よって“お帰りなさい”では無く“ピヨーッ、ピヨーッ”という甲高い鳴き声だ。)
鳥は驚くほど耳が良い。妻の車の音や息子の自転車の音を聞き分ける。別の車の音で鳴くことは無い。部屋に入ると鳥小屋の中から盛大に歓迎してくれる。バニラに一声「ただいま」と声をかけると嬉しそうに(?)止まり木の上で歓迎のサイドステップダンスを披露してくれる。
彼はリビングにいて、昼間はおとなしく寝ていたり、家族に愛嬌を振りまいているが、私たちが夕食を終えると小屋の入り口のお立ち台に立ち、外に出すよう催促をしてくる。出してやるとみんなの頭を翼ではたきながら部屋の中を飛び回り、誰かの肩の上にとまる。肩にとまったバニラの方に振り向いて声をかけると‘チュチュウッ’とかわいらしい声で応えてくれる。
愛くるしい仕草で家族を癒やしてくれる彼なのだが、妻と息子には自分の頭をかいてくれと催促するのに私が手を近づけるとどういうわけか逃げてしまう。この謎は解明されぬままだが唯一言えるのは、妻は毎日小屋の掃除をし、息子は餌や水の世話をしているからではないかということだ。鳥も人を見ているということか。
とは言え、誰かに一押ししてもらいたい時、「バニラもこう思うよね。」と話しかけ「ピヨッ。」と返ってくると、「ああバニラもこう思っているんだ。」と都合良く解釈させてもらい助けてもらっている。
家族全員からそれぞれ悩みを打ち明けられたり、返事を求められたりと考えてみると彼は大きな役割を果たしている。バニラ本人は、いちいち私たちの言葉に反応することを迷惑がっているかもしれないが、これからも家族の一員として元気でいてもらいたいと思う。
物語について
中野 正勝
早いもので、今年度の3月末で定年を迎えます。期せずして、令和元年度のこととなりました。従って、昭和・平成・令和と先生をしてきたことになります。
西暦ではなく、いわんやイスラム暦でもインカ暦でもなく、日本にいるのでたまたま日本の元号で自分のことを物語ればそんな感じです。昭和の時代は、主に黒板に向かって座り続け、その後黒板を背に立ち続けました。(西田幾多郎、私の履歴書より)
戦前の明治憲法の時代に、この国では戦争が相次ぎ最終的に国家は破壊されてしまいました(勿論、生まれてなかったのですが)。戦後の昭和は、復興~高度成長~石油ショック~バブルの時代があり、そのピークの頃に昭和が終わり、結婚したタイミングで平成になりました。自分の子どもたちは、生徒達と同じ平成生まれです。その平成も終わり、平成31年が令和元年となり、この文章が配布されるのは令和2年です。時は確実に流れてゆきます。
思えば、人それぞれに物語があります。一つ一つの小さな物語が集まり、社会や歴史の大きな物語になってゆきます。小さな物語と大きな物語・・・・。(思想家リオタールより)
時に小さな物語は、大きな歴史という物語とぶつかり、不幸や悲劇あるいは幸運や偶然をもたらしてゆきます。今回のコロナウィルス騒動も、そうかもしれません。このような物語の場合、主人公の責任はどこまで求められるのでしょうか。
カウンセリングや教育相談は、お互いの物語りが出会う場のようです。相談に至ったのは、周りのせいなのかも知れません。自分のせいなのかも知れません。親や周囲が作った物語に振り回されていたのかも知れません。自らが作った、あるいは信じた物語に、あるいは将来あるべき物語に、大切な今の時が縛られすぎていたのかも知れません。もし誰かの作った物語に乗り、ただ生きていくだけが主人公の人生だとしたら。・・・しかし、社会や時代の大きな物語の中では・・・・。
分かりません。
近年の教育研究では、計量・統計的な手法以外に、教育に携わった教師への質的インタビュー調査(ナラティヴ=物語的手法)があることを知りました。(人の話を聞くのが病的に好きだった。村上春樹より)歴史学でも経済学でも政治学の研究でも、似たようなことがあるのかもしれません。最も古典的な手法です。(歴史は物語だ。ヘロドトス)計量的で客観的なものと、質的なものとはやはり違います。例えば愛情は、どのように測ればよいのでしょうか。(僕らが毎年提出している「自己目標シート」、セブン・イレブン本社で提出される売り上げ目標、かんぽ生命の目標は全て客観的な数値でした)そこから得られる成果は、我々の物語をいったいどこへ運んでくれるのでしょうか。たった一度きりの物語の中で。
思いつくまま物語について綴ってみました。死ぬまで一人一人の物語りは続きます。
「人生はやっぱり美しい童話である」(ローザ・ルクセンブルクの獄中からの手紙より)
心新たに春を迎えよう
石田 帆乃夏
みなさんは普段、“涙を流す”ことがあるだろうか。私はつい先日、こんな体験をした。母に誘われて言ったコンサートでの出来事である。ある4人のバンドなのだが、音楽番組で見たことがあるくらいであった。しかし、母が相当熱狂的なファンであったため、できる限り予習をしていくことにした。会場の雰囲気に馴染めるか、多少の不安を抱え、当日を迎えた。当日は、後方の席であり、会場全体が一望できた。いざ始まると、驚くべきことが起きた。2,3曲目あたりから自然と涙が溢れたのである。しばらく止まらなかった。初めて彼らの音楽に生で触れ、会場のボルテージの上がり方や、今まで味わったことのない一体感、音楽そのものの素晴らしさに感動していた。約2時間のコンサートを終えて、残ったものは爽快感と幸福感であった。
涙活プロデューサーの寺井広樹さんは、涙は止めずに一気に流すことが大切だと言う。“涙を流す”という行為は、普段知らず知らずのうちに溜まっているストレスを発散し、リラックスした状態を作る効果があると言われている。
以前、保健室に訪れた生徒から、「しんどいことがあったけど、泣ける小説を読んで思いっきり泣いたらスッキリした!」という話を実際に聞いたことがある。
さて、新しい生活が始まる4月。明るく元気に、晴れ晴れした気持ちで迎えるためにも“涙を流す”ことで、心をリセットしてみてはいかがだろうか♪
シャットダウンから
蟻正 聖登
5月28日の朝8時過ぎのこと。職員室でいすに座って授業の準備をしていると・・・
ん? ・・・! そのあと気づいたのは、救急車の中。職員室で倒れて意識を失い、救急車で運ばれたらしい。搬送先の病院で検査すると、どうやら心臓が止まっていたらしく、すぐに心臓病専門の病院に転院。ペースメーカーを埋め込む手術を受けることになった。その後、授業などで生徒や周りの先生方に迷惑をかけることもあるが、経過はまずまず。職員室におられた先生方や救急隊員、治療に当たっていただいた病院の方々のおかげで命拾いをすることができた。
資料によるとペースメーカー装着者は全国に約40万人。約300人に一人の割合とのこと。このペースメーカーのおかげで多くの人が一般の人と同じように仕事をし、それまでと同じような生活ができている。ただ、ペースメーカーを埋め込んだ側の腕で重い荷物を持ったりできないし手を高く上げてもいけない。その上、ペースメーカーは電気や電磁波に弱く、気を付けなければいけない。もし誤作動すれば命に関わる。
先日も教材作りにTP用紙(透明なフィルム状用紙)数枚にペンで書き物をしていたとき左胸が苦しくなった。どうもTPをはがしたりするときに発生した静電気が影響したらしい。また、ある休みの日、子供が公園の滑り台を滑っているのを見ていたとき、何か左胸がおかしいと思ってあたりを見回すと、近くで子供がラジコンカーを操作していた。どうもそのリモコンの電波が影響したらしい。
冬にバチっとくる静電気はどうにか大丈夫らしいが、磁石や静電気を帯びたものを扱うのはよくないようだ。また、電磁波はいろいろなところで利用されており、生活を便利にしているが,携帯・スマホはその電磁波を利用するため、携帯を胸ポケットに入れたり左耳で電話をかけたりしてはいけない。最近ではどこでもインターネットに接続できるように、Wi-Fiが建物内だけでなくバスや電車などでも利用できるようになっているが、注意が必要である。多少の電磁波で誤作動することはないらしいが、ペースメーカーのすぐ近くで携帯電話をするとよくないので、ペースメーカーを埋め込んでいる人が座ることを考慮し、車内特に優先席付近では携帯の使用は禁止されている。電話の会話が迷惑だからというマナーの域を超えての禁止事項である。
振り返って自分のことを考えてみると、あまり自慢はできない。私は物理の教員なので、ペースメーカーのことはある程度知りつつも、静電気の実験はあまり気にせず行ってきたし、電磁波を発生させる実験器具も使用してきた。ペースメーカーをつけている生徒がいるとはこれまで聞いたことがないが、それ以外の理由で避けていた生徒がいたかもしれない。
外出したときなど、困っている人がいれば声をかけたり助けてあげたりすることは、優しい心を持っていても難しいことだ。優しい心以上に声をかける勇気を持ち合わせていないとできない。しかしそれに加えて配慮に必要な知識も大切だ。困っている人は外見だけでは判断できないこともあるし、その場にいないこともある。点字ブロックの意味を知らなければその上に自転車を置くかもしれないし、場所によっては車いすが通れる幅を確保しておく必要もあるだろう。公共の場所で歩きスマホをしてはいけないのはもちろんだが、点字ブロック上をスマホしながら歩いて目の不自由な方にぶつかるということもあるらしい。恥ずかしながらバスや電車の優先席付近で携帯の電源を切ったこともなく、それどころか優先席に普通に見える人が座っていると、いいのかな?と思ったりもしていた。もしかすると、ペースメーカーを埋め込んでいる人かもしれないのに。気配りをするには,優しい心と勇気、そして,日頃から困っている人に目を向けたちょっとした知識。気を遣ってもらわないといけない身になってしまったが,いろんなところに目を向け,優しい気配りができるようになりたいと思う。